ロマン主義(浪漫主義)
【概説】
明治20年代後半から日本において流行した、文学および芸術上の思潮。
伝統や形式にとらわれず、自我の解放や個人の自由な感情、理想の美を強く追求した。
封建的な道徳観からの脱却を促し、日本人の近代的な自我の目覚めに多大な影響を与えた。
近代日本におけるロマン主義の台頭と背景
西欧において18世紀末から19世紀にかけて興ったロマン主義(Romanticism)は、明治時代の中頃にあたる1890年代(明治20年代後半)から日本へ本格的に流入した。当時の日本は、明治維新以降の急速な近代化と西洋化が進む一方で、藩閥政府による国家主義的な体制が固まりつつある時期であった。また、社会の底辺には依然として家父長制や封建的な倫理観が色濃く残っていた。
こうした国家主導の重圧や古い因習に対する青年層の反発が、個人の内面や精神的自由を重んじるロマン主義を受容する土壌となった。さらに、プロテスタントを中心とするキリスト教思想の普及や、森鴎外らが翻訳した西洋のロマン派詩集『於母影(おもかげ)』(1889年刊行)による鮮烈な文学的刺激が、新たな精神の目覚めを強く促したのである。
『文學界』の創刊と透谷・藤村の活躍
日本のロマン主義文学の中心的な役割を担ったのが、1893年(明治26年)に創刊された雑誌『文學界』である。その中心人物であった北村透谷は、「内部生命論」などの評論を通じて、現実の功利主義を排し、精神の自由や恋愛至上主義を説いた。透谷の思想は当時の青年たちに熱狂的に支持されたが、彼自身は理想と現実の深いギャップに苦しみ、若くして自ら命を絶つこととなる。
透谷の遺志を継いだ島崎藤村は、1897年(明治30年)に詩集『若菜集』を刊行した。みずみずしい感性で若者の恋愛や自我の苦悩を流麗に歌い上げたこの詩集は、日本の近代詩の出発点となり、ロマン主義文学の金字塔として歴史に名を刻んだ。
浪漫歌人の系譜と新詩社『明星』
ロマン主義の波は、詩や小説だけでなく短歌の世界にも大きな革新をもたらした。その象徴が、与謝野鉄幹が創設した新詩社と、その機関誌『明星』(1900年創刊)である。特に鉄幹の妻となる与謝野晶子は、1901年(明治34年)に発表した歌集『みだれ髪』において、女性の官能や情熱的な恋愛を大胆に詠み上げ、従来の儒教的道徳観に縛られていた和歌の伝統を打ち破った。彼らの活動は個人の生の歓びを高らかに謳い上げるものであった。
また、小説の分野でも、泉鏡花が神秘的で幻想的な美の世界を描き出し、近代的合理主義への反発を含んだ独自のロマン主義文学(『高野聖』など)を確立している。
自然主義への移行と歴史的意義
明治30年代後半(1900年代半ば)に入ると、日清・日露戦争を経て日本の資本主義が急速に発達し、社会の暗部や矛盾が顕在化し始めた。これにより、理想や夢を追うロマン主義は次第に衰退し、現実の醜悪さや人間の赤裸々な姿を客観的に描破しようとする自然主義文学へと時代の主流が移っていく。かつてロマン主義を牽引した島崎藤村が、小説『破戒』(1906年)によって自然主義文学の先駆者となったことは、この時代の思想的転換を見事に象徴している。
しかし、ロマン主義が日本近代史に果たした役割は極めて大きい。それは単なる一過性の文芸思潮にとどまらず、日本人が初めて「個人」としての自己を発見し、近代的な自我を確立するための壮大な思想運動であった。ここで培われた個人の感情の尊重や内面への探求という精神は、大正期の白樺派や教養主義などのちの文化・思想へと脈々と受け継がれていったのである。