芸術座 (げいじゅつざ)
【概説】
大正初期に島村抱月と松井須磨子らによって結成された新劇劇団。トルストイ原作の『復活』などの翻訳劇を上演し、主題歌の大ヒットとともに大衆的な人気を獲得した。知識人中心であった新劇運動を広く一般に浸透させたが、抱月の急死と須磨子の自殺により解散に至った。
結成の背景:文芸協会の分裂と新劇の新たな模索
明治末期、日本の演劇界では、従来の歌舞伎や新派劇に対抗し、西欧風の近代劇を導入しようとする新劇運動が盛んになっていた。その双璧をなしたのが、小山内薫や市川左団次による自由劇場と、坪内逍遥が率いる文芸協会であった。
しかし、文芸協会の中心的な指導者であった文学者・島村抱月と、同協会の養成所出身で看板女優として頭角を現していた松井須磨子との恋愛関係が社会的な不倫スキャンダルとして糾弾される。これにより、抱月は文芸協会を辞任、須磨子も退会処分となり、協会は事実上の解体に追い込まれた。この危機を機に、1913(大正2)年、二人は新たな演劇の方向性を目指して「芸術座」を結成することとなった。
『復活』の爆発的ヒットと「カチューシャの唄」の流行
芸術座は結成当初こそ資金難や劇場確保に苦しんだが、1914(大正3)年に帝国劇場で上演したトルストイ原作の『復活』で空前の大ヒットを記録する。須磨子演じるヒロイン・カチューシャの悲劇的な生涯は観客の強い共感を呼び、劇中で彼女が歌った「カチューシャの唄」(島村抱月作詞、中山晋平作曲)は、レコードや楽譜の普及と相まって社会現象とも言える大流行となった。
これは、演劇と音楽(流行歌)が融合して大衆へ波及した日本最初期の事例であり、芸術座は従来の「難解で知識人のもの」であった新劇を、一躍「大衆が熱狂する娯楽」へと変貌させた。その後もメーテルリンクの『青い鳥』などを上演し、全国的な地方巡業や外地(朝鮮・満洲・台湾など)での公演を精力的に行い、日本の近代演劇の普及に多大な貢献を果たした。
主宰者の相次ぐ死と劇団の終焉
芸術座は大衆的・商業的な大成功を収めたものの、その繁栄は長くは続かなかった。1918(大正7)年11月、世界中で猛威を振るっていた大流行風邪(スペイン風邪)に罹患し、劇団の精神的・芸術的支柱であった島村抱月が47歳で急逝する。
主宰者であり演出家、そして愛する伴侶でもあった抱月を失った松井須磨子の動揺は激しく、翌1919(大正8)年1月、芸術座の道具部屋において首吊り自殺を遂げた。スター女優の衝撃的な追死により、芸術座はその活動に幕を閉じざるを得なくなった。
芸術座の活動期間はわずか6年ほどであったが、演劇の近代化と大衆化を同時に成し遂げたその軌跡は、のちの大正デモクラシー期における大衆文化の開花を先駆ける重要な歴史的意義を持っている。