天台宗
【概説】
最澄が唐で学び、帰国後に比叡山延暦寺を総本山として日本に開いた大乗仏教の宗派。中国天台宗の教えを基盤としつつも、『法華経』を根本経典として密教・禅・戒を融合させた独自の総合仏教として発展した。のちの鎌倉新仏教の開祖たちを多数輩出するなど、日本仏教の母体として極めて重要な役割を果たした。
最澄による伝来と開宗の背景
日本における天台宗は、平安時代初期に最澄(伝教大師)によってもたらされた。奈良時代の日本の仏教(南都六宗)は、国家の鎮護を目的とする学問仏教の色彩が強く、また道鏡の政界進出に見られるように政治との結びつきが強固になりすぎていた。桓武天皇はこうした南都の寺院勢力から政治を切り離すため平安京への遷都を断行し、新たな国家仏教の担い手を求めていた。
この期待に応えたのが、比叡山に籠もって修行を積んでいた最澄である。最澄は804(延暦23)年、桓武天皇の庇護のもと還学生(短期留学生)として遣唐使船で入唐し、天台山国清寺などで天台教学を学んだ。帰国後の806(大同元)年、朝廷から新たに年分度者(毎年国家が認定する出家者の定員)2名が天台宗に割り当てられた。この2名は天台教学を学ぶ「天台業」と、密教を学ぶ「遮那業」に分けられており、この年をもって日本天台宗の公的な開宗と見なされている。
「四宗相承」と天台密教(台密)の発展
日本天台宗の最大の特徴は、中国天台宗が法華経の教理研究を重んじたのに対し、法華経を最高位に置きつつも、密教・禅・戒(大乗菩薩戒)を融合させた点にある。これを「四宗相承(ししゅうそうじょう)」と呼ぶ。最澄は「すべての人は成仏できる」とする法華経の一乗思想を確固たる教理の基盤とし、それを実践するための総合仏教を目指したのである。
しかし、最澄が唐で学んだ密教は限定的なものであったため、同時代に本格的な純密を伝えた空海の真言宗(東密)が宮廷貴族の支持を集めるようになると、天台宗も密教化の必要に迫られた。最澄の死後、円仁(慈覚大師)や円珍(智証大師)が相次いで入唐して最新の密教を請来し、天台教学と密教を同格とみなす「理同事勝(りどうじしょう)」の理論を整備した。こうして確立された天台宗の密教を台密(たいみつ)と呼び、祈祷や加持を通じて平安貴族の現世利益の要求に応え、絶大な権力を握るに至った。なお、のちに比叡山延暦寺を拠点とする円仁の門流(山門派)と、園城寺(三井寺)を拠点とする円珍の門流(寺門派)が激しく対立し、僧兵による武力抗争を引き起こすこととなる。
大乗戒壇の設立と南都旧仏教との対立
最澄が生涯をかけて取り組んだ最大の課題が、大乗戒壇の独立であった。当時の僧侶は、奈良の東大寺などにある戒壇で「具足戒(小乗戒)」という厳しい規律を受けなければ、国家公認の僧侶になることができなかった。最澄はこれを、大乗仏教の菩薩にふさわしくない時代遅れのものと批判し、法華経に基づく「円頓戒(えんどんかい、大乗菩薩戒)」のみを授ける独自の戒壇を比叡山に設けることを強硬に主張した。
この主張は、仏教界の権威を独占していた南都の諸宗派からの猛烈な反発を招いた。最澄は『顕戒論』を著して南都側の批判に反論し、朝廷に対して独立を訴え続けた。彼の生前に許可が下りることはなかったが、最澄が没した直後の822(弘仁13)年、ついに朝廷から大乗戒壇の設立が勅許された。これにより、天台宗は名実ともに南都仏教からの完全な独立を果たし、平安仏教の二大潮流の一つとしての地位を確立したのである。
日本仏教の「母山」としての比叡山と歴史的意義
平安時代中期以降、天台宗は「本覚思想(ほんがくしそう)」を深めていった。これは「生きとし生けるもののみならず、草木や国土といった非情のものすらも、本来すべて悟りを開いた仏の現れである」とする徹底した肯定思想であり、日本の自然観や文化、芸術に多大な影響を与えた。
一方で、比叡山が巨大な権力と富を持つ荘園領主となり、僧兵を抱えて世俗化していくと、そのあり方に疑問を抱く学僧たちが現れた。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、比叡山で学んだ僧侶たちは次々と山を下り、新たな仏教運動を展開した。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮などは、いずれも初期に比叡山で天台の教えを学んだ人物である。
すなわち天台宗は、それ自体が日本における仏教の最高学府としての役割を果たし、後の鎌倉新仏教が誕生するための巨大な母体となった。この点において、天台宗が日本の宗教史・精神史に及ぼした影響は計り知れず、日本仏教の「母山」と称される最大の理由となっている。