倭人 (わじん)
【概説】
中国などの周辺諸国から見て、古代の日本列島に住んでいた人々やその社会を指した他称。主に弥生時代から飛鳥時代にかけての中国の正史に記録されており、文字を持たなかった当時の日本列島の政治や社会状況を知るための極めて重要な手がかりとなっている。
華夷思想に基づく「倭人」という呼称
「倭人」とは、中国の歴代王朝が東方海上に住む人々を指して用いた呼称である。古代中国には、自国の文化を最高のものとし、周辺の諸民族を夷狄(いてき)として見下す華夷思想(中華思想)が存在した。東方に住む異民族は総称して「東夷(とうい)」と呼ばれ、倭人もその一部として位置づけられた。「倭」という漢字には「小柄」「従順」などの意味が含まれており、中華の徳を慕って遠方から服属してきた人々というニュアンスが込められている。
『漢書』地理志に見る小国分立の社会
歴史書において「倭人」が初めて確実な記録として登場するのは、中国・前漢の歴史を記した『漢書』地理志である。そこには、紀元前1世紀頃の倭人の社会が「百余国」に分立しており、朝鮮半島に置かれた前漢の出先機関である楽浪郡に定期的に使者を送り、朝貢していたことが記されている。この記述から、当時の日本列島が小規模な政治集団に分かれながらも、先進的な鉄器や文化を求めて中国王朝とのつながりを持とうとしていたことがわかる。
『後漢書』と社会の成熟
紀元後1世紀に入ると、倭人社会の一部はさらに強大な勢力へと成長していく。『後漢書』東夷伝には、建武中元2年(57年)に倭奴国(わのなのこく)の使者が後漢の光武帝から印綬(漢委奴国王の金印)を授けられたことや、永初元年(107年)に倭国王の帥升(すいしょう)らが奴隷(生口)を献上したことが記されている。これは、倭人の有力首長が中国皇帝から「王」として認められること(冊封体制への組み込み)で、日本列島内での政治的優位性を確保しようとした表れである。しかし、2世紀後半には「倭国大乱」と呼ばれる長期間の戦乱状態に陥り、倭人社会は大きな転換点を迎えることとなる。
『魏志倭人伝』が伝える詳細な倭人社会
3世紀の倭人社会について最も詳細な記録を残しているのが、中国の歴史書『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条、通称『魏志倭人伝』である。ここには、争いを収めるために共立された邪馬台国の女王・卑弥呼の存在や、彼女が魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印紫綬を与えられたことが記されている。
また同書は、当時の倭人の風俗や社会制度についても豊富な情報を伝えている。身分制度としては支配層である「大人(たいじん)」と被支配層である「下戸(げこ)」の区別が明確になり、租税の徴収や刑罰の制度が存在し、市場での交易が行われていたことなどが記録されている。これらの詳細な記述は、弥生時代後期の日本列島において初期的な国家形成が着実に進展していたことを示している。
「倭人」から「日本人」への脱却
5世紀の古墳時代には、「倭の五王」が中国の南朝へ頻繁に使いを送り、朝鮮半島南部における軍事的・政治的影響力を強めるために中国皇帝からの称号を求めた。このように「倭」は長らく、中国王朝を中心とした東アジアの国際秩序(冊封体制)の中で自らを位置づけていた。
しかし、7世紀に入り推古天皇や聖徳太子らの時代(飛鳥時代)になると、隋や唐といった統一帝国に対して対等な外交関係を模索するようになる。遣隋使や遣唐使の派遣を通じて中国の先進的な律令制度を導入し、天皇を中心とした中央集権国家の建設が進むと、中華思想に基づく従属的な他称である「倭」を忌避するようになった。そして7世紀後半(天武・持統朝頃)、対外的な国号を「日本」と定めるとともに、自らを「倭人」ではなく「日本人」と規定するようになり、古代東アジア世界における「倭人」という概念は発展的に消滅していくこととなった。