寄生地主
【概説】
自らは農業を行わず、没落した農民から買い集めた土地を小作農に貸し出し、高額な小作料を取り立てて生活した裕福な地主。明治時代中期に確立し、第二次世界大戦後の農地改革で解体されるまで、日本の農村社会および資本主義経済の根幹をなした。
寄生地主制の成立と松方デフレ
明治政府が1873年(明治6年)に実施した地租改正により、土地の所有権が法的に認められ、農民は定額の現金を税(地租)として納めることとなった。しかし、1880年代前半に大蔵卿・松方正義が主導した極端な緊縮財政政策(松方デフレ)により、農産物価格が暴落する。定額の現金納付という税負担に耐え切れなくなった多くの中小農民は没落し、自らの農地を手放さざるを得なくなった。
これらの手放された土地を買い集めたのが、村の富農や商人、高利貸などの有力者であった。彼らは広大な土地を所有する巨大地主へと成長する一方で、自らは直接農業経営を行うことをやめ、土地を失った農民(小作農)に貸し付けて地代を徴収するようになった。このようにして、1890年代頃までに寄生地主制と呼ばれる日本独自の土地所有・農業経営の構造が確立していった。
高額な小作料と収奪の構造
寄生地主の最大の特徴は、小作農に対する極めて過酷な収奪構造にある。地租は現金による定額納付であったのに対し、地主が小作人から徴収する小作料は現物納であり、その額は収穫高の約半分という極めて高水準に設定されていた。
日清・日露戦争を経て物価が上昇局面に入ると、地主が国に納める定額の地租負担は相対的に軽くなる一方で、地主は小作農から現物で徴収した米などを市場で有利に販売し、莫大な利潤を手にした。これに対し、小作農は高額な小作料を差し引かれたわずかな収穫物での生活を強いられ、農業の再生産もままならない極貧状態に置かれた。このような構造は、農村における貧富の格差を固定化・拡大させる最大の要因となった。
日本の資本主義発達における役割
寄生地主が蓄積した莫大な富は、日本の近代化において極めて重要な役割を果たした。彼らは農業で得た利益を農地の改良や農業技術への再投資に回すことは少なく、銀行、鉄道、紡績業などの近代産業に対する投資(株式保有など)へ積極的に振り向けた。この地主資本は、明治時代後期の日本の産業革命を資金面で強力に下支えすることとなった。
しかし一方で、国民の大多数を占める農民(小作農)が極度の貧困状態に据え置かれたことは、国内における購買力の著しい低迷を意味した。そのため、日本の資本主義は国内市場の狭隘化という構造的弱点を抱え、製品の販路や資源を求めて対外膨張(海外植民地の獲得)へと向かわざるを得ない一因ともなった。
小作争議の激化と制度の解体
大正時代に入り、第一次世界大戦後の好況に伴うインフレーションや、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的な風潮を背景に、農村部では小作料の減免などを求める小作争議が頻発するようになった。1922年(大正11年)には賀川豊彦らにより初の全国的な農民組織である日本農民組合が結成され、地主と小作農の階級対立は深刻な社会問題と化した。
政府は小作調停法(1924年)などを制定して事態の沈静化を図ったものの、地主の強い政治的影響力もあり、地主制そのものを抜本的に改革することはできなかった。寄生地主制が最終的に解体されるのは、第二次世界大戦後のことである。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令のもとで実施された農地改革(1946年〜)により、不在地主の全貸付地や在村地主の一定面積以上の貸付地が国家によって強制買収され、小作農に安価で売り渡された。これにより、半世紀以上にわたって日本社会を規定してきた寄生地主制は完全に消滅し、自作農を中心とする新たな農村社会が形成されたのである。