福島事件
【概説】
1882(明治15)年、福島県において県令の三島通庸による専制的な政治や強制的な道路工事に反発した県民および自由党員が、警察や軍隊によって大規模に弾圧された事件。自由民権運動の激化期に起きた最初の激化事件であり、その後の全国的な武装蜂起の連鎖の引き金となった。
自由民権運動の高揚と「鬼県令」の赴任
1881(明治14)年の国会開設の詔の発布により、10年後の国会開設が約束されると、板垣退助を党首とする自由党が結成されるなど、全国で自由民権運動は高揚期を迎えた。政府はこれに強い危機感を抱き、集会条例の改正などによって運動への弾圧を強めていった。こうした情勢下の1882(明治15)年、福島県令として赴任したのが、政府の強硬派として知られる三島通庸(みしまみちつね)である。「鬼県令」の異名をとる三島は、「管内の逆賊(民権家)を退治する」と公言し、自由党勢力の強い福島県において徹底的な弾圧姿勢で臨んだ。
三方道路工事の強行と県民の抵抗
当時、福島県会では自由党員の河野広中(こうのひろなか)が議長を務め、民権派が多数を占めていた。三島は県会の議決を無視する形で、会津から新潟、山形、栃木へと抜ける会津三方道路の建設工事を計画した。この土木工事は、県民に対して強制的な労役や巨額の負担金を強いるものであったため、農民たちは激しく反発した。河野広中ら自由党員は、この農民の不満を背景に、県会において三島の専制的な県政や不法な税の取り立てを厳しく追及し、県令と県会の対立は決定的なものとなった。
喜多方事件と大規模な弾圧
三島は警察力を動員して反対運動の弾圧に乗り出し、工事への不参加者や反対派の財産差し押さえなどを強行した。1882年11月、喜多方警察署に拘束された同志の釈放を求めて数千人の農民が押し寄せる事態が発生する(喜多方事件)。三島はこれを「暴徒の反乱」とみなし、軍隊および警察を動員して徹底的に鎮圧した。これを口実として、河野広中をはじめとする福島県内の自由党員や農民ら約2000人が次々と逮捕・投獄されるという、前代未聞の大規模な弾圧へと発展した。
事件の歴史的意義とその後の影響
裁判の結果、河野広中は国事犯(内乱陰謀罪)として軽禁錮7年の重刑に処せられた。この福島事件は、明治政府が「地方の民権運動と農民の強固な結びつき」に恐怖し、国家権力を用いてそれを強権的に叩き潰した象徴的な事件である。同時に、政府の非妥協的な弾圧策を目の当たりにした自由民権派の一部は、合法的な言論による運動に限界を感じ、実力行使や武装蜂起の路線へと傾斜していくこととなった。福島事件で弾圧を逃れた自由党員らが、三島通庸の暗殺を企てて後に加波山事件(1884年)を起こすなど、本事件は自由民権運動が過激化していく「激化事件」の先駆けとしての重要な歴史的意義を持っている。