群馬事件 (ぐんまじけん)
【概説】
明治時代中期の1884(明治17)年5月に群馬県で発生した、自由民権運動の急進派による武装蜂起未遂事件。松方デフレによって窮乏した農民と自由党の指導部が結びつき、高崎の警察署などを襲撃して政府転覆を計画したものの、事前に露見して失敗に終わった。自由民権運動が言論闘争から実力行使へと変質していく過程で発生した、一連の「激化事件」の先駆けとして位置づけられる。
松方デフレによる農村の窮乏と自由党の急進数
1881(明治14)年の政変後に大蔵卿に就任した松方正義は、激しいインフレーションを収束させるために緊縮財政と紙幣整理を断行した。この松方財政(松方デフレ)は通貨価値の安定に寄与したものの、農産物価格の急落を招き、全国の農村に深刻な不況をもたらした。
特に群馬県は養蚕・製糸業が盛んな地域であったが、生糸や繭の価格暴落によって多くの農民が莫大な負債を抱え、土地を失って小作農へと転落していった。こうした中、言論による民権運動に限界を感じていた自由党の急進派党員(宮部譲や清水寛二ら)が、生活苦にあえぐ農民たち(借金党や貧民党と呼ばれた素朴な抵抗組織)と結びつき、武力によって政府を打倒する計画を模索し始めた。
高崎警察署の襲撃計画とその挫折
1884年5月、群馬県の北甘楽郡(現在の妙義山麓周辺)を中心とする自由党員や農民らは、一斉蜂起を計画した。その内容は、まず高崎の警察署や官公庁、さらには高利貸を襲撃して武器や資金を強奪し、妙義山に立てこもってゲリラ戦を展開、最終的には東京へ進撃して政府を打倒するという過激なものであった。
しかし、この計画は決行直前に警察側の知るところとなり、主要な首謀者や活動家が次々と検挙された。農民らの一部は武装して集結を試みたものの、組織的な行動に移る前に計画は完全に瓦解し、未遂のまま鎮圧されることとなった。首謀者らは過酷な処罰を受け、運動は一時的に鎮静化を余儀なくされた。
「激化事件」の端緒としての歴史的意義
群馬事件そのものは未遂に終わったものの、この事件は日本の近代史において極めて重要な過渡期を示す指標となった。それまでの自由民権運動は、都市の知識人や豪農層を中心とした言論による国会開設運動が主流であったが、群馬事件を皮切りに、困窮する一般農民を巻き込んだ「力による抵抗」へと変質していったからである。
この事件を端緒として、同年には栃木・茨城の民権派が蜂起した加波山事件、長野県の飯田事件、そして民権運動史上最大の武装蜂起とされる埼玉県の秩父事件など、各地でいわゆる「激化事件」が頻発することになる。群馬事件は、過激化する地方の民権派・農民と、これらをつなぎとめられなくなった自由党中央(同年に解党を選択)との乖離を浮き彫りにし、明治政府による専制政治への抵抗が泥沼化していく契機となった事件であった。