関税自主権
【概説】
国家が自国の産業を保護するため、輸入品にかける関税の税率を自由に決定できる権利のこと。日本は江戸時代末期の不平等条約においてこの権利を失ったが、明治政府の長年にわたる条約改正交渉の末、1911(明治44)年に完全回復を果たした。
主権国家における関税自主権の意義
関税自主権は、独立した主権国家が自国の経済や産業を保護・育成するために不可欠な権利である。通常、国家は外国から安価な製品が大量に流入して国内産業が打撃を受けるのを防ぐため、輸入品に対して高い関税をかけて価格競争力を調整する役割を持つ。また、関税そのものが国家の重要な財源ともなる。したがって、この権利を持たないということは、国家の経済的独立が著しく制限されている状態を意味する。
日米修好通商条約による喪失と「協定関税制」
日本における関税自主権の喪失は、1858(安政5)年に江戸幕府が大老・井伊直弼のもとでアメリカと締結した日米修好通商条約(およびこれに続く安政の五カ国条約)に端を発する。この条約において、輸出入品の関税率は日本が単独で決定できず、両国の合意によって定める協定関税制が採用された。さらに、1866(慶応2)年に列強の圧力によって結ばれた改税約書により、関税率は輸出入ともに原則として一律5パーセントという極めて低い水準に引き下げられてしまった。
国内経済への打撃と明治政府の苦難
関税自主権を持たないことによる影響は、開国後の日本経済に深刻な打撃を与えた。低関税のまま自由貿易が開始された結果、イギリスなどで機械生産された安価で良質な綿織物などが大量に流入し、日本の伝統的な家内手工業であった木綿生産地は壊滅的な被害を受けた。また、明治維新を経て誕生した新政府にとっても、近代化政策(殖産興業や富国強兵)を推進するための莫大な資金が必要であったにもかかわらず、関税収入を自由に増やすことができないという事態は、国家財政の基盤構築を著しく阻害する要因となった。
小村寿太郎による「完全回復」への道のり
明治政府にとって、関税自主権の回復と領事裁判権(治外法権)の撤廃という「条約改正」は、欧米列強と対等な関係を築くための悲願にして最重要の外交課題であった。岩倉使節団の派遣以降、歴代の外務卿・外務大臣が交渉に奔走したが、列強の壁は厚く難航を極めた。1894(明治27)年、陸奥宗光外相の時代に結ばれた日英通商航海条約によって領事裁判権の撤廃には成功したものの、関税自主権については一部の税率引き上げが認められた(一部回復)にとどまった。
その後、日清戦争および日露戦争の勝利を経て、日本の国際的地位は飛躍的に向上した。これを背景に、1911(明治44)年、第2次桂太郎内閣の小村寿太郎外相のもとで日米通商航海条約が改正・調印され、ついに関税自主権の完全回復が実現した。幕末の喪失から実に半世紀以上の歳月を費やしたこの出来事により、日本は名実ともに不平等条約の呪縛から脱却し、欧米列強と肩を並べる完全な独立国家としての歩みを進めることとなったのである。