金玉均

独立党(開化派)の中心人物で、日本の支援を受けて甲申事変を起こしたが失敗し、日本へ亡命したのち暗殺された人物は誰か?
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重要度
★★

【参考リンク】
金玉均(Wikipedia)

金玉均 (きんぎょくきん / キム・オッキュン)

1851年~1894年

【概説】
李氏朝鮮末期の政治家であり、近代化を目指した急進開化派(独立党)の指導者。日本の明治維新を手本とした内政改革による清からの独立を志向し、1884年にクーデター(甲申事変)を起こしたが失敗。日本亡命後に暗殺され、その死は日清戦争前夜の日本世論を激化させる契機となった。

開化派(独立党)の形成と日本への接近

1876年の日朝修好条規(江華島条約)の締結以降、朝鮮国内では開国にともなう近代化の必要性が叫ばれるようになった。この中で、清への従属を維持しつつ緩やかな改革を目指す「事大党」(閔氏一族を中心とする保守派)に対し、清からの完全な独立と日本の明治維新をモデルとした急進的な近代的改革(文明開化)を唱えたのが、金玉均らの率いる独立党(開化派)であった。

金玉均はたびたび日本を訪れ、福沢諭吉ら日本の有識者や政界関係者と親交を結んだ。福沢は彼らの愛国心と改革の志を高く評価し、資金援助や慶應義塾への朝鮮人留学生の受け入れ、さらには朝鮮初の発行物となる新聞(漢城周報)の印刷技術支援などを行い、金玉均らの活動を全面的にバックアップした。

甲申事変の決行と挫折

朝鮮宮廷における事大党(閔氏政権)との権力闘争が激化するなか、1884年に清仏戦争が勃発すると、朝鮮駐留の清国軍の一部が撤退した。これを好機と捉えた金玉均は、日本公使・竹添進一郎の協力を取りつけ、同年12月にクーデターを決行した。これが甲申事変(こうしんじへん)である。

金玉均らは閔氏一派の重臣を殺害して新政権を樹立し、清への朝貢廃止や身分制度の打破、地租改正などを盛り込んだ急進的な改革プログラム(十四箇条の政綱)を掲げた。しかし、閔氏の要請を受けた清の将軍・袁世凱(えんせいがい)率いる大軍が介入すると、少数の日本軍と独立党は防ぎきれず、わずか3日間で政権は崩壊(三日天下)。金玉均らは日本公使館員らとともに日本へ亡命することを余儀なくされた。

日本への亡命、暗殺と日清戦争への影響

日本に亡命した金玉均であったが、甲申事変の失敗によって清との関係悪化を恐れた日本政府(伊藤博文内閣など)からは冷遇され、小笠原諸島や北海道への退去を命じられるなど流浪の身となった。かつて彼を支援した福沢諭吉やアジア主義者たちは政府の姿勢を非難したが、金玉均を取り巻く状況は好転しなかった。

1894年、事態打開を図るために清の上海へ渡った金玉均は、閔氏政権が放った刺客・洪鐘宇(こうしょうう)によって暗殺された。彼の遺体は朝鮮に運ばれ、反逆者として「凌遅刑(遺体をバラバラにする刑)」に処された。この悲劇的な結末と凄惨な処刑は日本国内に報道され、対馬海流を挟んだ清・朝鮮に対する日本世論の激しい怒りと「対外強硬論」を巻き起こすこととなった。結果として、この事件は同年に勃発する日清戦争への国民的機運を醸成する大きな契機となったのである。

金玉均と日本: その滞日の軌跡

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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