社会進化論 (しゃかいしんかのん)
【概説】
チャールズ・ダーウィンの生物進化論を人間社会の歴史や構造に適用し、適者生存や優勝劣敗の法則によって社会が発展するとした思想。明治期の日本に導入され、自由民権運動から国権論への転回、さらには帝国主義的な対外拡張の論理を正当化する上で決定的な影響を与えたイデオロギー。
日本における受容と「優勝劣敗」の衝撃
明治初期、大森貝塚の発見で知られるお雇い外国人のエドワード・S・モースが進化論を日本に紹介した。この生物学的な進化論は、イギリスの思想家ハーバート・スペンサーらの手によって人間社会の発展法則へと応用され、「社会進化論」として日本に流入した。当時の知識人たちに最も強い衝撃を与えたのは、社会は「適者生存」と「優勝劣敗」の冷酷な法則に支配されているという言説であった。この思想は、急速な近代化(文明開化)を進めていた日本において、欧米列強に追いつくための近代化を理論武装する格好の思想的道具となった。
天賦人権論の否定と国権論への傾斜
社会進化論の導入により、日本の思想界は大きな転換点を迎えた。それまで自由民権運動の理論的支柱であった、すべての人間が平等な権利を持つとする「天賦人権論」に対し、強力な反論が提起されたのである。その急先鋒となったのが、東京大学綜理(総長)の加藤弘之であった。加藤はかつて民権論を支持していたが、社会進化論に傾倒すると自説を翻し、1882年に『人権新説』を著した。彼は同書の中で、自然界と同様に人間社会も強肉強食の場であり、実力のない弱者が権利を主張することは不合理であるとして民権論を否定し、国家の主権や国力の増強を最優先する国権論の立場を確立した。
アジア認識の変容と帝国主義への道
当初、社会進化論は「人類社会は未開から文明へと進化する」という楽観的な進歩史観として民権派にも受け入れられていたが、次第に国家間の生存競争を正当化する論理へと変貌していった。日本が近代化を達成し、日清戦争や日露戦争へと突き進む中で、この思想は「文明国である日本」が「非文明国であるアジア隣国」を導き、支配することの合理化に使われた。さらには、黄色人種と白色人種の生存競争(「黄白の競争」)という枠組みで世界情勢を捉える見方が広まり、日本の帝国主義的な対外拡張や植民地支配を国民が自発的に支持する思想的土壌が形成されることとなった。