ハーバート・スペンサー (はーばーと・すぺんさー)
【概説】
「適者生存」を説く社会進化論(社会ダーウィニズム)を提唱したイギリスの哲学者・社会学者。チャールズ・ダーウィンの生物進化論を人間社会の発展プロセスに適用し、社会もまた未開から文明へと進化すると主張した。明治期の日本に導入されると、自由民権運動の理論的支柱や、その後の国家主義・帝国主義的な「優勝劣敗」の思想に大きな影響を与えた。
社会進化論と「適者生存」の思想
ハーバート・スペンサーは、19世紀後半のイギリスにおいて自然科学の知見をもとに体系的な社会科学を構築した人物である。彼はダーウィンの『種の起源』に先んじて進化の概念を抱いており、のちにダーウィンの自然淘汰説に触発されて「適者生存」という言葉を造語した。これを人間社会の歴史的発展に適用したのが社会進化論(社会ダーウィニズム)である。スペンサー自身は、社会が強制的な「軍事型社会」から自由な合意に基づく「産業型社会」へと進化すると考え、国家の干渉を極力排除する徹底した自由放任主義(レッセ・フェール)を唱えた。しかし、この理論は後に、国家間・人種間の競争における「優勝劣敗」を自然の摂理として肯定する帝国主義的な論理へと変容し、世界中に普及していくこととなった。
明治日本における受容と政治・思想への影響
日本におけるスペンサーの思想は、明治初期の自由民権運動期から急速に受容された。当初は、個人の自由や社会の進歩を肯定する文脈で民権派の思想家たちに好まれたが、次第に国家の近代化と対外競争を正当化する理論へとスライドしていった。その代表例が、東京大学綜理を務めた加藤弘之による受容である。加藤は著書『人権新説』(1882年)において、スペンサーの社会進化論を援用し、当時流行していた天賦人権論を実証性のない「妄説」として否定した。加藤は「優勝劣敗」の法則を盾に、強者が弱者を支配するのは自然の理であり、国家の権利が個人の権利に優先すると主張した。さらに、大日本帝国憲法の起草に携わった金子堅太郎は、留学中にスペンサーの講義に感銘を受け、のちに憲法制定や外交問題に関して彼に意見を求めている。スペンサーは金子に対し、日本の伝統維持や外国人への安易な市場開放への警告(「スペンサーの勧告」)を送るなど、明治日本の国家デザインに直接・間接の強い影響を与え続けた。