大日本帝国憲法
【概説】
1889年(明治22年)2月11日、黒田清隆内閣の時に発布された、天皇主権や強大な天皇大権を特徴とする日本初の近代憲法。プロイセン憲法をモデルに君主権の強い欽定憲法として制定され、翌1890年の第1回帝国議会開会とともに施行された。第二次世界大戦敗戦後の1947年(昭和22年)、日本国憲法の施行に伴いその効力を失った。
自由民権運動の高まりと憲法制定の背景
1870年代以降、板垣退助らを中心に展開された自由民権運動は、国会開設や憲法制定を政府に強く迫るものであった。各地で民間による私擬憲法が草案される中、政府内でも近代国家としての体裁を整えるため、憲法制定の必要性が認識されるようになった。1881年(明治14年)、開拓使官有物払下げ事件を機に勃発した明治十四年の政変において、即時国会開設を主張する大隈重信を政府から追放すると同時に、政府は「国会開設の勅諭」を発布した。これにより、10年後の1890年に国会を開設することが公約され、急務として政府主導による憲法制定作業が本格化することとなった。
伊藤博文の渡欧とプロイセン憲法の採用
1882年(明治15年)、伊藤博文は憲法調査のためにヨーロッパへ派遣された。彼はイギリスのような議院内閣制に基づく民主的な憲法ではなく、君主の権力が強力に保たれているドイツ(プロイセン)の憲法体制に着目した。伊藤はベルリン大学のグナイストやウィーン大学のシュタインらから立憲体制の理論を学び、日本の国体に適した君主権の強い憲法構想を固めた。
帰国後、伊藤は井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らとともに、ドイツ人法律顧問ロエスレルの助言を得ながら極秘裏に起草作業を進めた。そして1888年に創設された天皇の最高諮問機関である枢密院での綿密な審議を経て、憲法草案が完成した。
天皇主権と強大な天皇大権
1889年(明治22年)2月11日、天皇が国民に下賜する欽定憲法の形式で発布された大日本帝国憲法の最大の特徴は、天皇主権を明記した点にある。第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定め、第3条では「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定された。
天皇は国家の元首として、立法・行政・司法のすべての統治権を総攬する立場にあり、広範な権限を天皇大権として保持した。とくに、陸海軍を直接指揮する権限である統帥権は、議会や内閣の干渉を受けない独立した大権(統帥権の独立)とされ、これが後に昭和期において軍部の政治介入や独走を招く最大の制度的要因となった。
臣民の権利と帝国議会の権限
国民は天皇の臣下である「臣民」と位置づけられ、言論・集会・結社・信教の自由などの基本的人権は、あくまで「法律の範囲内」においてのみ保障されるに留まった(法律の留保)。
一方、立法機関として衆議院と貴族院からなる帝国議会が設置された。議会は天皇の立法権を「協賛(同意)」する機関とされたが、法律の制定や予算の成立には議会の承認が不可欠であった。とくに議会が予算の先議権と否決権を持っていたことは、政党が政府に対して発言力を強める強力な武器となり、以後の日本の議会政治・政党政治を発展させる重要な原動力となった。
歴史的意義とその後の憲政
大日本帝国憲法の制定により、日本はアジアで初めて本格的な立憲体制と議会政治を備えた近代国家として国際社会に認知された。これは、幕末以来の悲願であった不平等条約の改正に向けた大きな前進(法権の回復)でもあった。
憲法の運用は時代とともに変化し、大正時代には政党内閣制が定着する「大正デモクラシー」と呼ばれる民主的な憲政の発展を見た(憲政の常道)。しかし、昭和恐慌以降の社会不安の中で軍部が台頭すると、統帥権の独立などの憲法上の特権が拡大解釈され、立憲主義的・民主的な機能は失われていった。その後、第二次世界大戦の敗戦を経て、1947年(昭和22年)の日本国憲法施行に伴い、半世紀以上にわたる日本の近代化を支えた法制的な役割を終えることとなった。