衆議院(明治時代)
【概説】
大日本帝国憲法に基づき、貴族院とともに帝国議会を構成した下院。制限選挙によって選ばれた国民の代表たる議員で組織され、予算の先議権などの権限を有していた。藩閥政府に対する民意反映の場となり、後の政党政治発展の重要な舞台となった。
帝国議会の創設と衆議院の構成
1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法に基づき、翌1890年(明治23年)に日本の近代的な立法機関として帝国議会が開設された。帝国議会は二院制をとっており、皇族・華族や天皇の勅任による議員で構成される貴族院(上院)と、国民の公選による議員で構成される衆議院(下院)から成っていた。貴族院が保守的な防波堤としての役割を期待されたのに対し、衆議院は一定の条件を満たした国民の意思を国政に反映させる機関として位置づけられた。
衆議院の権限と予算先議権
大日本帝国憲法下における帝国議会は、あくまで天皇の立法権を「協賛」する機関であり、現在の国会に比べると議会の権限は相対的に弱かった。しかし、法律案および予算案の審議・議決権という重要な権能を持っていた。中でも衆議院にのみ与えられていたのが予算の先議権である。これは、国民から徴収した税金を財源とする国家予算については、国民の代表機関である下院で先に審議するという近代立憲主義に基づく原則であった。
憲法第71条には、議会で予算が不成立となった場合には前年度の予算をそのまま施行する(前年度予算執行)という規定があり、政府の行政機能が停止することは防がれていた。とはいえ、軍備拡張や新規事業などの新たな予算を組むためには必ず衆議院の同意が必要であり、この予算先議権を最大の武器として、政党は藩閥政府に対抗していくこととなる。
選挙制度の変遷と有権者の実態
1890年の第1回衆議院議員総選挙に際して定められた衆議院議員選挙法では、選挙権は「直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子」に厳しく制限されていた。この基準を満たす有権者は当時の総人口のわずか約1.1%(約45万人)に過ぎず、その大半は地方の大地主であった。
その後、産業資本主義の発達とともに都市部の有権者を増やす狙いもあり、1900年(明治33年)の第2次山県有朋内閣の時代に選挙法が改正され、納税資格が「直接国税10円以上」に引き下げられた。これにより有権者数は約98万人に増加したが、依然として有産階級のみに国政参加が許される制限選挙の時代が続いた。これが後の大正デモクラシー期における普通選挙運動へとつながっていく。
初期議会における対立と政党政治への道
明治期の衆議院は、民党(自由党や立憲改進党などの政党)と、超然主義を掲げる藩閥政府との激しい攻防の場となった。初期議会において、民党は「民力休養・政費節減」をスローガンに掲げて政府の予算案、特に軍拡予算に強硬に反対した。
政府は議会の解散や選挙干渉などで強硬姿勢を示したものの、予算成立のためには衆議院の協力が不可欠であり、次第に妥協を余儀なくされていった。日清戦争後には、政府側も議会運営を円滑に進めるために政党との提携を模索するようになり、1900年には伊藤博文を総裁とする立憲政友会が結成された。このように、明治期の衆議院は権限こそ限定的であったものの、政府の独走を牽制し、日本における政党政治を育む極めて重要な歴史的役割を果たしたのである。