機関誌『日本人』 (にほんじん)
【概説】
明治時代中期、言論結社である政教社が創刊した論説雑誌。時の明治政府が推進していた極端な欧化主義を鋭く批判し、日本の文化的独自性を維持しながら近代化を目指す「国粋主義」を提唱した。
欧化主義への反発と政教社の設立
明治政府は、江戸幕府が結んだ不平等条約の改正を最優先課題とし、外務卿(のち外相)・井上馨を中心に欧米諸国への迎合的な西洋化政策(欧化政策)を推進した。象徴的な「鹿鳴館」における外交は、当時の知識人の間に「国辱的である」との強い危機感と反発を巻き起こすこととなる。このような状況下、1888(明治21)年4月、三宅雪嶺、志賀重昂、杉浦重剛らが中心となって政教社を結成し、同月にその機関誌として『日本人』を創刊した。
「国粋保存主義」の提唱と民友社との対立
『日本人』が展開した主張は、一般に国粋保存主義(国粋主義)と呼ばれる。これは単なる復古主義や盲目的な排外主義ではなく、西洋の優れた文明や制度は主体的に受容しつつも、日本独自の歴史や伝統、国民的個性を重視し、それを基盤として近代国家を建設すべきだという合理的なナショナリズムであった。特に志賀重昂が同誌などで展開した地理・風景論は、日本の国土や自然美を通じて国民的自覚を促すものとして大きな影響を与えた。
この『日本人』の立場は、同時期に徳富蘇峰が率いる民友社の機関誌『国民之友』が提唱した「平民主義」(下からの西洋化を進め、平民を中心とした民主的近代国家を建設すべきとする主張)と鋭く対立した。両者による「国粋」と「欧化」をめぐる論争は、明治中期の思想界における最大の争点となり、近代日本の国家像と言論の多様性を豊かにする契機となった。
日清・日露戦争期への変遷と歴史的意義
政府の条約改正交渉が難航し、対外緊張が高まる中で、国民の間では『日本人』が主張するナショナリズムへの共感が広がっていった。1907(明治40)年には、三宅雪嶺らが主導して『アジア』誌と合併し、誌名を『日本及日本人』へと改題した。その後、日露戦争後の国家主義の台頭、大正デモクラシー期、さらには昭和の超国家主義へと至る激動の時代にあって、言論の自主性を保ちながら論調を変化させ、最終的に1945(昭和20)年の敗戦直前まで刊行が続けられた。日本の伝統と近代化のあり方を問い直したその言論活動は、日本近代思想史において不朽の足跡を残している。