樺山資紀 (かばやますけのり)
【概説】
幕末から大正期にかけて活躍した、薩摩藩出身の海軍軍人・政治家。第2回帝国議会において、藩閥政府の正当性を主張して民党を激しく挑発した「蛮勇演説」で知られる。日清戦争後には初代台湾総督に就任し、のちに内務大臣や文部大臣などの要職を歴任した。
「蛮勇演説」と超然主義の衝突
樺山資紀の名を日本史上に残した最大の事件が、1891年(明治24年)の第2回帝国議会(第1次松方正義内閣)における「蛮勇演説」である。当時、緊縮財政と地租軽減を掲げる民党(立憲自由党・立憲改進党など)は、政府が提出した海軍費(軍艦建造費)を含む予算案を大幅に削減しようと激しく対立していた。
これに対し、海軍大臣であった樺山は登壇し、「薩長藩閥政府の保護と指導があったからこそ、今日の日本の安全と発展がある」という旨の演説を行い、藩閥の功績を露骨に誇示した。政府が政党の意向に左右されず政策を遂行するという超然主義の姿勢を剥き出しにしたこの演説は、民党側の激しい怒りを買い、議会は紛糾した。結果として予算案は不成立となり、松方内閣は衆議院解散を選択。その後の第2回総選挙における大規模な選挙干渉へと繋がっていくこととなった。
日清戦争と初代台湾総督への就任
樺山は政治家としてだけでなく、黎明期の日本海軍を支えた軍人としても大きな足跡を残している。薩摩藩士として薩英戦争や戊辰戦争に身を投じた後、初期は陸軍に属して西南戦争などに従軍したが、のちに海軍へ転じた。海軍次官や海軍大臣を歴任し、軍令部長として臨んだ日清戦争(1894年〜1895年)では、巡洋艦「西京丸」に乗船して黄海海戦に参戦するなど、前線で指揮を執った。
戦後の1895年、下関条約によって日本が台湾を割譲されると、樺山はその軍功と手腕を評価され、初代台湾総督に任命された。現地における武装抵抗運動の鎮圧(台湾平定)に努めるとともに、民政局を設置して日本による台湾統治の基礎を築いた。台湾総督退任後も、枢密顧問官、文部大臣、内務大臣などの要職を歴任し、大正期まで国家の重鎮として影響力を保ち続けた。