蛮勇演説 (ばんゆうえんぜつ)
【概説】
第2回帝国議会において、海軍大臣の樺山資紀が行った極めて強硬な演説。薩長藩閥政府の強兵政策こそが国家の安全を保ってきたと自負し、予算削減を求める民党を激しく挑発した。この発言は藩閥政府の独善的な「超然主義」を象徴するものとして議会を大混乱に陥れ、日本初の衆議院解散につながる契機となった。
初期議会における「民力休養」と軍事予算をめぐる対立
大日本帝国憲法の制定を経て、1890年に開設された初期の帝国議会(第1回から第4回頃まで)は、薩長藩閥を中心とする政府と、衆議院の過半数を占める民党(自由党や立憲改進党など)との間で激しい主導権争いが繰り広げられた。時の政府は、政党の動向に左右されずに政策を強行する「超然主義」を標榜していたが、民党側は日清戦争を控えて軍備拡張を急ぐ政府に対し、「民力休養・政費節減」を掲げて地租軽減や政府予算(特に軍事費)の大幅な削減を要求して厳しく対抗した。
1891年に召集された第2回帝国議会(第1次松方正義内閣)においても、民党は海軍の軍艦建造費などの予算案を大幅に削減する査定案を提示し、妥協を許さない姿勢を見せていた。政府側は軍備強化が遅れることに焦燥感を募らせており、両者の対立は極限に達していた。
樺山海相の失言と「蛮勇」と批判された背景
1891年12月22日の衆議院予算総会において、緊迫した状況のなか壇上に立った海軍大臣の樺山資紀(薩摩藩出身)は、民党による執拗な海軍予算削減要求に対し、ついに激昂した。樺山は、「薩長政府であれ何であれ、今日我が国が安全を保ち、条約改正の交渉すら進められるようになったのは、維新以来、政府が強兵政策を推進してきた功績である」という趣旨の発言を大声で行った。
この発言は、藩閥政府の独占を公然と肯定し、憲法に基づく議会審議の意義を否定するものに等しかった。民党議員らは「藩閥の専横」「憲法違反の暴言」として猛烈に反発し、議場は怒号が飛び交う大混乱となった。樺山の道理をわきまえないこの強硬な態度は、世論やメディアからも激しく批判され、後に「蛮勇演説」と揶揄されることとなった。
議会解散と超然主義の限界
この演説による大混乱によって議会の継続は不可能となり、松方内閣は予算案の成立を断念せざるを得なくなった。事態を打開するため、内閣は12月25日に日本史上初となる衆議院解散を断行した。翌1892年2月に行われた第2回衆議院議員総選挙において、政府は品川弥二郎内相らを中心として、死者25名、負傷者数点にのぼる凄惨な選挙干渉を行った。しかし、そこまでの強硬手段を用いたにもかかわらず、結果は民党側が過半数を維持する事態となった。
蛮勇演説とその後の政局は、いかに政府が「超然」を気取ろうとも、議会の協力を得られなければ予算が成立せず、近代国家としての政務運営が不可能であるという現実を藩閥勢力に痛感させることとなった。この挫折は、後に伊藤博文らが政党の必要性を痛感し、立憲政友会の結成へと舵を切るなど、藩閥政府が政党との妥協や提携を模索する政党政治への移行期における重要な転換点となったのである。