衆議院解散

第2回帝国議会において、政府の軍事予算案を拒否する民党に対し、松方内閣が天皇の大権を発動させて日本で初めて行った措置は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
衆議院解散(Wikipedia)

衆議院解散

1890〜1947年

【概説】
大日本帝国憲法下において、天皇の大権に基づき衆議院議員全員の資格を失わせ、総選挙をやり直した制度。予算案や法案をめぐって政府と議会が対立した際、妥協が不可能な場合に議会側を制約・牽制するための強力な対抗手段として行使された。

帝国憲法における解散権の規定と「超然主義」

大日本帝国憲法第7条において、衆議院の解散は天皇の大権(召集、開会、閉会、停会、解散)の一つとして定められていた。実質的には、内閣が閣議決定に基づいて上奏し、天皇の裁可を得ることで行使された。憲法第45条の規定により、衆議院が解散された場合は5か月以内に総選挙を施行することが義務付けられていた。

明治中期の初期議会において、藩閥政府は政党に左右されずに国政を担うという超然主義を掲げていた。しかし、民論を背景とする民党(立憲自由党や立憲改進党など)が衆議院の多数を占め、政府の予算案に対して「民力休養・政費節減」を求めて厳しく対立したため、政府は議会の抵抗を排除する目的で解散権を行使することとなった。

第2回帝国議会における初の衆議院解散(1891年)

日本憲政史上初の衆議院解散は、1891年(明治24年)12月25日、第1次松方正義内閣のもとで断行された(第2回帝国議会)。

当時、松方内閣が提出した軍備拡張を主とする予算案に対し、民党側は大幅な削減を要求して激しく対立した。さらに、海軍大臣・樺山資紀が「薩長藩閥の功績によって今日の日本がある」と主張した「蛮勇演説」によって議場は紛糾し、妥協の余地が失われた。松方内閣は議会を解散することで、民党の勢力を削減し、政府に従順な議会を再構成しようと試みたのである。

選挙干渉とその歴史的影響

初の解散に伴い、1892年2月に第2回衆議院議員総選挙が実施された。この際、松方内閣の内務大臣・品川弥二郎らは、官憲(警察)や地方官を動員して民党系候補者に対する激しい選挙干渉を行った。これにより全国で死者25人、負傷者380余人を出す大惨事となった。

しかし、このような激しい弾圧にもかかわらず、選挙結果は民党側が過半数を維持し、政府の目論見は完全に失敗に終わった。この結果、政府は武力や権力による議会の制圧(超然主義)には限界があることを悟り、その後の伊藤博文内閣などにおいては、政党との妥協や連携(情実提携)を模索する方向へと舵を切ることとなった。衆議院解散制度は、藩閥政府と政党が勢力を競い、やがて政党内閣期へと移行していく過渡期における、最も先鋭化した対立の契機として重要な歴史的意義を持っている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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