品川弥二郎 (しながわやじろう)
【概説】
幕末の長州藩士出身の政治家。明治政府において第1次松方正義内閣の内務大臣を務め、1892年の第2回衆議院議員総選挙で大規模な選挙干渉を指揮した人物。
松下村塾から明治の藩閥官僚へ
品川弥二郎は天保14(1843)年、長州藩の足軽の家に生まれた。幼少期に吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作や久坂玄瑞らとともに尊皇攘夷運動に奔走した。戊辰戦争では奥羽整討総督参謀などを務め、維新後はヨーロッパ留学を経て農商務大輔や駐独公使、宮中顧問官などを歴任。長州閥の有力な一員として、一貫して天皇を中心とする絶対主義的官僚国家の確立を目指した。
第2回総選挙における「史上最悪」の選挙干渉
明治24(1891)年、品川は第1次松方正義内閣の内務大臣に就任する。当時、開設されたばかりの帝国議会では、「民力休養・政費削減」を掲げる自由党や立憲改進党などの民党が衆議院の多数を占め、軍備拡張を目指す藩閥政府(吏党)と激しく対立していた。明治24年12月、政府は予算案をめぐる対立から衆議院を解散し、翌明治25(1892)年2月に第2回衆議院議員総選挙が実施されることとなった。
内相である品川は、民党の進出を力ずくで阻止し、親政府派の議席を確保するために、全国の警察官や地方官(知事など)を総動員して大規模な選挙干渉を断行した。民党側の演説会の中止、有権者への買収や脅迫、さらには投票箱の奪取など、その手段は極めて暴力的であった。この強硬策により、高知県や佐賀県をはじめ全国で激しい衝突が発生し、死者25名、負傷者388名という憲政史上最大の惨劇を引き起こした。
選挙干渉の結末と近代政党政治への影響
これほどの激しい干渉を行ったにもかかわらず、選挙結果は民党が過半数を維持し、政府側の目論見は失敗に終わった。そればかりか、あまりにも凄惨な弾圧に対する世論の批判は高まり、閣内からも品川の手法に対する反発が噴出した。責任を追及された品川は内務大臣を辞任に追い込まれ、これが引き金となって松方内閣も退陣へと追い込まれた。
品川はその後、西郷従道らとともに親政府派の政治団体である国民協会を結成し、議会内での反民党勢力の結集を図ったが、近代化を進める日本において「力による議会支配」という超然主義的姿勢には限界があることを露呈する結果となった。この品川による選挙干渉の失敗は、藩閥政府であっても議会や世論を無視した政権運営は不可能であることを証明し、その後の政党政治(藩閥と政党の妥協、ひいては政党内閣の誕生)へと向かう歴史的転換点となった。