条約励行運動 (じょうやくれいこううんどう)
【概説】
明治中期の日本において、対外硬派の政治運動家らが展開した、不平等条約の厳格な執行を求める運動。現行条約の条文を文字通り厳格に実行(励行)することで外国人に不便を強いて、早期に対等な条約改正に応じさせることを目的とした政治戦略である。
「対外硬」の台頭と運動の論理
明治政府の悲願であった条約改正をめぐっては、政府が妥協的な改正案(外国人判事の任用など)を提示するたびに、国内で激しい反対運動が巻き起こっていた。特に1889年(明治22年)の大隈重信外相による改正交渉の挫折以降、民権派の一部や国権派は「対外硬派」を結成し、政府の「弱腰外交」を厳しく批判するようになった。彼らは1890年に開設された帝国議会を主たる舞台として、政府との対決姿勢を強めていった。
こうした状況下で、1893年(明治26年)に結成された大日本協会などの対外硬派が提唱したのが「条約励行」である。これは、当時の不平等条約(安政の五カ国条約など)に定められた居留地制度を逆手に取る戦略であった。外国人の居留地外での居住や営業、遊歩、あるいは日本沿岸における外国船の航行などを違法として厳格に取り締まる(励行する)ことで、外国人に日本での日常生活や経済活動の不自由さを痛感させようとした。これによって、外国側に「これほど不便なら、早く不平等条約を改めて内地雑居(外国人が日本国内に自由に居住・営業すること)を認めてもらった方がよい」と思わせ、日本に対等な新条約の締結を促そうという狙いがあった。
政府の対応と条約改正の実現
この運動は排外主義的な世論を刺激し、国内で外国人への嫌がらせやトラブルが頻発する事態を招いた。当時、イギリスなどとの間で条約改正交渉を本格化させていた第2次伊藤博文内閣の陸奥宗光外務大臣は、この運動を極めて危険視した。外国に対して、日本が野蛮な排外主義国であるとの印象を与えてしまえば、進行中の条約改正交渉(特に領事裁判権の撤廃)が根底から覆りかねないと考えたためである。
対外硬派の議員らは衆議院において政府を糾弾する「条約励行に関する上奏案」などを提出して対決姿勢を強めたが、伊藤内閣は1893年12月、これを阻止するために衆議院解散(第3回総選挙へ)を断行。さらに大日本協会に解散命令を下すなど、運動に対して徹底的な弾圧を加えた。
その一方で陸奥外相は、この激しい国内世論を「これ以上交渉を引き延ばせば、日本国内の排外主義が暴走して制御不能になる」という一種の交渉材料としてイギリス側に提示し、交渉の妥結を急がせた。その結果、翌1894年(明治27年)7月、日清戦争の開戦直前に日英通商航海条約の調印に成功し、領事裁判権(治外法権)の撤廃を達成した。これにより、条約励行運動はその名分を失い、急速に収束へと向かった。