殺害人の逮捕 (さつがいにんのたいほ)
1185年〜
【概説】
鎌倉幕府が諸国に配置した守護に認められた、殺人などの重大犯罪者を捕縛する治安維持職能。京都大番役の催促、謀叛人の逮捕とともに「大犯三カ条」と総称される、守護の核心的権限の一つである。
「大犯三カ条」としての位置づけと守護の創設
1185年(文治元年)、源頼朝は源義経・行家追討を名目に、朝廷から諸国への守護・地頭の設置権を獲得した(文治の勅許)。この時、守護に与えられた権限は極めて限定的であり、国政一般(行政・司法)は依然として国司や荘園領主が掌握していた。守護が持つことを許された限定的な軍事・警察権が「大犯三カ条」であり、その一つが「殺害人の逮捕」であった。
殺害人の逮捕は、社会秩序を揺るがす重大な暴力犯罪者(殺人犯など)を追捕する役割を指す。これは、国家の反逆者を捕らえる「謀叛人の逮捕」や、朝廷の警備兵を動員する「京都大番役の催促」と並び、幕府が国内の平和維持(「諸国静謐」)を担う存在としての正当性を朝廷から獲得するための重要な大義名分であった。
治安維持権をめぐる公武の対立と御成敗式目
守護による「殺害人の逮捕」の執行は、しばしば伝統的な荘園領主(公家や寺社)の「不入の権」と衝突した。守護やその使者が犯罪者追捕を口実に荘園内に立ち入ることは、領主側の既得権益を侵す行為であったため、鎌倉時代を通じて激しい紛争の原因となった。
1232年(貞永元年)に執権の北条泰時が制定した『御成敗式目(貞永式目)』の第3条では、守護の職権が改めてこの「大犯三カ条」に限定され、国司や荘園領主の政務への介入や、年貢の抑留などが厳しく禁止された。しかし、殺害人の逮捕という警察権行使を名目にした守護の荘園支配への介入は実質的に進行し、後の室町時代における守護大名の誕生(守護領国制)へとつながる権限拡大の足がかりとなった。