対外硬派 (たいがいこうは)
【概説】
明治中期の初期議会期において、藩閥政府の妥協的な条約改正交渉を「軟弱外交」と非難し、対外的に強硬な姿勢を貫くべきだと主張した政治勢力。立憲改進党や対外硬派系の諸会派、国民協会などの国粋主義団体が、反政府・対外強硬をスローガンに結成した大同団結の野党共闘グループである。
結成の背景:条約改正問題と初期議会の対立
明治政府にとって、幕末に結ばれた不平等条約の改正(関税自主権の回復と領事裁判権の撤廃)は悲願であった。しかし、井上馨や青木周蔵ら歴代の外相による交渉は、外国人判事の任用や外国人への「内地雑居」(国内の自由居住・営業)を認めるなど、一定の譲歩を伴うものであった。これに対し、民権派の一部や国粋主義者らは、主権を侵害する妥協的な外交であるとして猛烈に反発した。
第1回帝国議会の開設以降、民党(地主層を地盤とする野党)は「民力休養・政費節減」を掲げて予算問題で政府と対立していたが、やがて条約改正問題も藩閥政府を攻撃する絶好の材料となった。この過程で、立憲改進党や東洋自由党、さらには保守・右翼的な国民協会などが大同団結し、政府の外交姿勢を「軟弱」と批判する対外硬派(対外硬六派など)が形成された。
「条約励行」の主張と議会の混乱
対外硬派が政府攻撃の武器として唱えたのが「条約励行(じょうやくれいこう)」である。これは、現行の不平等条約を改正されるまでの間、一字一句厳格に履行(励行)しようという主張であった。具体的には、条約で認められた居留地以外での外国人の居住や営業、旅行などを厳しく制限・取り締まることを求めた。
彼らの狙いは、外国人に不自由を強いることで、相手国側から「このような不便な条約は廃止して、一刻も早く新たな対等条約を結び直そう」と言い出させることにあった。しかし、現実には外国人排斥(排外主義)を煽るものであり、現行条約に違反しない範囲での嫌がらせに近い戦術であったため、近代的な国際協調を目指す政府との対立は決定的なものとなった。時の外務大臣陸奥宗光は、対外硬派の主張を「名分においては極めて美なり」としながらも、現実の外交においては有害無益であるとして厳しく弾圧し、対外硬派の反発によって第5回、第6回帝国議会は続けて衆議院解散に追い込まれることとなった。
日清戦争への道と対外硬派の終焉
対外硬派による激しい政府批判は、当時の世論(ナショナリズム)を強く刺激し、対外強硬論を国民的な規模へと拡大させた。これにより、政府は外交において一歩も引けない状況に追い込まれていった。1894年、朝鮮半島における甲午農民戦争(東学党の乱)を契機に日清両国の緊張が高まると、対外硬派は清国に対する徹底抗戦を主張し、政府を後押しした。
同年に日清戦争が勃発すると、それまで政府と激しく対立していた対外硬派を含む民党側は、一転して戦争協賛へと回り、いわゆる「挙国一致」の体制が形成された。また、戦争直前にイギリスとの間で日英通商航海条約が調印され、領事裁判権の撤廃に成功したこともあり、対外硬派が掲げた「反政府・条約励行」という大義名分は事実上消滅し、その活動は終息へと向かった。しかし、この時期に醸成された対外強硬的な国民意識は、その後の日本の帝国主義的・軍事的な膨張主義を支える精神的土壌となった。