東学 (とうがく)
【概説】
19世紀半ばの李氏朝鮮において、崔済愚が創始した民間宗教。儒教・仏教・道教・シャーマニズムなどを融合させ、西洋のキリスト教(西学)に対抗して民衆の平等を説いた。後にこの教徒を中心として甲午農民戦争が勃発し、日清戦争の直接的な契機となったことで、日本史および東アジア近代史において極めて重要な役割を果たした。
「西学」への対抗と平等を重んじる教義
19世紀の朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、勢道政治による官僚(両班)の腐敗や、キリスト教(西学)の流入、さらには欧米列強の進出という「内憂外患」の危機に直面していた。このような社会的混迷の中で、慶州の没落両班であった崔済愚(チェジェウ)が1860年に創始したのが東学である。
東学は、伝統的な儒教、仏教、道教に加えて民間信仰を融合させた思想体系を持つ。その思想の核心は、万人は心に天主(神)を宿しており、人間はみな平等であるとする「人乃天(じんないてん)」であった。この徹底した平等主義は、厳しい身分制社会や重税に苦しんでいた農民や賤民などの間で急速に支持を広げることとなった。王朝政府はこれを邪教として激しく弾圧し、1864年に崔済愚を「人心を惑わした罪」で処刑したが、第2代教主の崔時亨(チェシヒョン)らによって教典が整理され、教団組織が整備されたことで、東学の勢力は地下へと潜行しながら民衆の間で拡大を続けた。
甲午農民戦争の勃発と日清戦争への契機
東学の信徒を中心とする民衆の不満は、1894年、全羅道古阜郡の郡守による苛烈な搾取を契機に爆発した。東学の地方指導者であった全琫準(チョンボンジュン)らに率いられた農民軍は、貪官汚吏の処罰や免税、さらには奴婢制度の廃止などを求めて蜂起した。これが東アジアの運命を大きく変えることとなる甲午農民戦争(東学党の乱)である。
農民軍が全羅道の治所である全州城を占領するなど勢力を拡大すると、自力での鎮圧が不可能となった朝鮮政府は清朝に救援を求めた。これに対し、日本も1885年の天津条約を口実に、朝鮮における自国権益を守る名目で即座に派兵を決定した。日清両軍の介入を恐れた農民軍は、清日の衝突を避けるために政府と「全州和約」を結んで自発的に武装解除に応じたが、日本軍は撤退せず、漢城(ソウル)の宮殿を占領して親日政権を樹立させた。これが引き金となり、同年の日清戦争へと発展することになった。
近代東アジア史における東学の歴史的意義
東学は、単なる一過性の宗教運動にとどまらず、朝鮮における最初の本格的な民衆主導の近代化運動・反侵略運動としての側面を持っていた。甲午農民戦争において農民軍が掲げた「輔国安民」(国を助け民を安んじる)や「斥倭斥洋」(日本と西洋を斥ける)というスローガンは、のちの抗日義兵闘争へと引き継がれていくこととなる。
日清戦争の過程で日本軍と朝鮮政府軍によって徹底的に弾圧され、多くの指導者が処刑されたものの、東学の系譜は途絶えなかった。1905年には第3代教主の孫秉熙によって天道教と改称され、1919年の三・一独立運動においては、キリスト教や仏教の勢力とともに独立万歳デモの計画・実行を主導するなど、近代朝鮮の民族独立運動において極めて大きな足跡を残した。