春帆楼 (しゅんぱんろう)
【概説】
山口県下関市(当時の赤間関市)にある割烹旅館。1895(明治28)年に日清戦争の講和会議が開催され、下関条約(日清講和条約)が締結された交渉の舞台として歴史的に知られる。また、近代日本において豊臣秀吉以来の「フグ食禁止令」を解く契機となった、フグ料理公許第一号の店としても有名である。
伊藤博文と「フグ料理公許第一号」の誕生
春帆楼はもともと、眼科医の医院であった建物を、中津藩(大分県)出身の女性・藤野玄洋の妻であったみちが買い取り、明治初期に創業した割烹旅館である。この宿の名を世に広める契機となったのが、長州藩出身の初代内閣総理大臣・伊藤博文であった。
安土桃山時代の豊臣秀吉による「河豚(フグ)禁食令」以来、日本国内ではフグの食用が厳しく禁止されていた。しかし1888(明治21)年、下関に滞在した伊藤博文が春帆楼で密かに提供されたフグの美味に深く感銘を受け、当時の山口県知事に働きかけて山口県内でのフグ食の禁止を解除させた。これにより、春帆楼は内閣総理大臣公認の「フグ料理公許第一号」の看板を掲げることとなり、政財界の重鎮たちが集う名門旅館としての地位を確立した。
日清講和会議の舞台としての選定背景
1894年に勃発した日清戦争が日本の勝利に終わると、翌1895年3月から講和交渉が開始されることとなった。その交渉会場として、伊藤博文は東京や大坂ではなく、あえて本州の西端である下関の春帆楼を指定した。これには明確な政治的・軍事的な意図が存在していた。
下関の関門海峡は、瀬戸内海と日本海を結ぶ海上交通の要衝であり、当時は帝国陸軍の近代要塞(下関要塞)が築かれていた。また、当時は大本営が広島に置かれており、前線との連絡が容易であった。伊藤は、清国全権大使である李鴻章に対し、関門海峡を行き交う大日本帝国海軍の最新鋭軍艦や陸軍の輸送船を間近に見せつけることで、日本の圧倒的な軍事力を誇示し、外交交渉を有利に進めようと画策したのである。春帆楼の高台からは、その関門海峡を一望することができた。
講和交渉の展開と歴史的意義
1895年3月20日、日本側全権の伊藤博文、外務大臣陸奥宗光と、清国全権の李鴻章による会談が春帆楼で開始された。交渉は日本の大幅な領土要求(遼東半島・台湾などの割譲)に対し、清国側が激しく抵抗して難航した。しかし交渉期間中の3月24日、李鴻章が春帆楼からの帰路、日本の右翼青年に狙撃されて負傷する事件(李鴻章狙撃事件)が発生する。これにより国際世論の批判を恐れた日本側は、一時無条件の休戦に合意せざるを得なくなった。
傷の癒えた李鴻章との交渉が再開され、同年4月17日、春帆楼において最終的に下関条約が調印された。これにより日本は、巨額の賠償金と台湾・澎湖諸島などの割譲を獲得し、東アジアにおける帝国主義国家としての第一歩を踏み出すこととなった。
なお、当時の春帆楼の建物は第二次世界大戦中の1945年の空襲によって焼失したが、戦後に再建され、現在も割烹旅館として営業を続けている。敷地内には「日清講和記念館」が併設されており、講和会議で使用されたフランス製の調度品や、当時の会議室の様子が忠実に再現され、往時の歴史の転換点を今に伝えている。