遼東半島

下関条約で一度は日本への割譲が約束されたものの、ロシアを中心とする列強の「三国干瘡」の圧力によって、日本が領有を断念し清国へ返還した地域はどこか?
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【参考リンク】
遼東半島(Wikipedia)

遼東半島 (りょうとうはんとう)

【概説】
下関条約によって日本への割譲が決まった、中国東北部(満州)南端から黄海と渤海を分けるように突き出た軍事・交通の要衝。直後にロシアを中心とする列強の三国干渉を受け、日本は清への返還を余儀なくされた。近代日本のアジア大陸進出の足場を巡る争奪の舞台となり、日露戦争やその後の満州支配へと直結する極めて重要な地域である。

日清戦争と下関条約による割譲

遼東半島は、中国東北部(歴史的呼称としての満州)の南部に位置し、その先端には天然の良港である旅順(りょじゅん)と大連(だいれん)を擁する。首都北京と海を挟んで向き合う位置にあるため、古くから海上交通および国防上の要衝とされてきた。

1894年(明治27年)に開戦した日清戦争において、日本陸軍は朝鮮半島から北上して遼東半島に侵攻し、激戦の末に旅順などの主要拠点を占領した。1895年4月に結ばれた講和条約である下関条約において、清は台湾や澎湖諸島とともに遼東半島を日本へ割譲することを承認した。日本にとって、これは念願であった大陸への本格的な進出拠点を手に入れたことを意味していた。

三国干渉と「臥薪嘗胆」

しかし、日本の権益拡大は、満州から朝鮮半島にかけての南下政策を推し進めていたロシア帝国との激しい対立を招いた。ロシアは、日本による遼東半島領有が清の首都を脅かし、極東の平和を乱すものであると主張し、ドイツ・フランス両国を誘って日本に半島の返還を勧告した。これが三国干渉である。

当時の日本には、強大な軍事力を持つ列強三カ国を相手に戦争をする実力はなかった。政府はやむなく勧告を受諾し、1895年11月の遼東還付条約によって、清から3000万両(約4500万円)の代償金を受け取る代わりに遼東半島を返還した。この屈辱的な結末は日本国民を激しく憤激させ、中国の故事に倣った「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンとする反露感情と軍備拡張の大きな原動力となった。

ロシアの南下と日露戦争の激戦地へ

三国干渉後、清は日本への巨額の賠償金を支払うためロシアやフランスなどから借款を行った。列強はこれを見返りとして中国分割を急速に推し進め、首謀者であったロシアは1898年、清から遼東半島南端(旅順・大連)の租借権を獲得した。ロシアは旅順に難攻不落の要塞と太平洋艦隊の根拠地(軍港)を築き、大連を商業港として開発するとともに、シベリア鉄道と直結する東清鉄道の南部支線を敷設した。

日本が血を流して獲得しながら手放した土地が、最大の仮想敵国であるロシアの極東における軍事拠点となったことは、日本の安全保障上の重大な脅威であった。これが直接的な原因となり、1904年に日露戦争が勃発する。日本軍にとって遼東半島は再び戦場となり、特にロシアの旅順要塞を巡る旅順攻囲戦では、乃木希典率いる第3軍が甚大な犠牲を払いながらこれを陥落させた。

日本の「関東州」支配と大陸進出の拠点

1905年のポーツマス条約により、日本はロシアから遼東半島南部の租借権と、長春から旅順に至る鉄道(後の南満州鉄道)の権益を譲り受けた。日本はかつての中国の関所(山海関)より東に位置することから、この租借地を「関東州」と名付け、統治機関として関東都督府(後に関東庁)を設置した。

以後、大連には半官半民の国策会社である南満州鉄道株式会社(満鉄)の本社が置かれ、関東州には鉄道沿線の守備を名目として関東軍が駐留した。遼東半島は、日本が満州国を建国し、さらなる日中戦争へと突き進んでいくための、軍事・経済・交通の最重要拠点として機能し続けた。この日本の支配は、1945年の第二次世界大戦敗戦まで続くこととなる。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 両統迭立において、後深草天皇の血統からなり、主に長講堂領などの荘園を経済基盤とし、のちの北朝へとつながる皇統は何か?
Q. 1933年3月、満州国建国を否認する勧告案が国際連盟で可決されたことを不服とし、日本政府がとった対抗措置は何か?
Q. 文治の勅許の際に設置が認められた、のちに守護として定着することになる、軍事・警察権を持つ役職の初期の呼称の一つは何か?