地租増徴案
【概説】
日清戦争後の軍備拡張財源を確保するため、1898年に第3次伊藤博文内閣が帝国議会に提出した地租の引き上げ法案。地主層を支持基盤とする政党側の猛烈な反対にあって否決され、明治期の藩閥政府と政党の対立を激化させる契機となった。
日清戦争後の「戦後経営」と増税の必要性
1894年から1895年にかけて行われた日清戦争に勝利した日本は、東アジアにおける地位を高めた。しかし、直後に起こった三国干渉によって遼東半島を清に返還せざるを得なくなり、ロシアを中心とする列強の脅威を強く認識することとなった。これに対抗するため、藩閥政府は陸海軍の急速な増強を柱とする「戦後経営」(軍備拡張計画)を推し進めた。
この膨大な軍事費を賄うため、政府は下関条約で得た清からの賠償金を充てたが、それだけでは恒久的な財源としては不十分であった。そこで、1898年1月に発足した第3次伊藤博文内閣は、最も安定的かつ確実な税収源であった地租の税率を、従来の2.5%から4.0%へと引き上げる「地租増徴案」を策定し、財源不足を解消しようと試みた。
民党の「民力休養」論と増徴案の否決
当時、帝国議会の衆議院で多数を占めていたのは、自由党や進歩党をはじめとする民党(対きょう硬派などを含む野党勢力)であった。民党は、明治初期から「民力休養・政費節減」をスローガンに掲げて政府の財政方針を批判しており、その地主層を中心とする地方の支持基盤を守るためにも、地租の増税には絶対反対の立場をとった。
伊藤首相は政党との提携・抱き込みを図ったが交渉は決裂し、1898年6月、地租増徴案は衆議院において圧倒的多数で否決された。これに対し伊藤内閣は直ちに衆議院を解散し、総選挙での巻き返しを図ったが、政府の強硬姿勢は政党側の結束をさらに強める結果となった。
「憲政党」の結成と政党政治への転換
地租増徴案の否決と衆議院解散という事態を前に、それまで対立関係にあった板垣退助率いる自由党と、大隈重信率いる進歩党が合同し、大政党である憲政党が結成された。これにより、衆議院の議席の大部分を政党側が掌握することとなり、藩閥政府が掲げていた政党に左右されないという超然主義の姿勢は完全に破綻した。
事態の打開が不可能と悟った伊藤博文は首相を辞任し、後継として憲政党の大隈重信を首相、板垣退助を内務大臣とする日本初の政党内閣(第1次大隈内閣、通称「隈板内閣」)が誕生することとなった。このように、地租増徴案をめぐる対立は、日本の近代政治史における「政党政治の出発点」を用意する決定的な契機となったのである。なお、地租増徴自体は、その後の第2次山県有朋内閣において、憲政党(旧自由党系)との妥協により税率を3.3%に抑える形で実現することとなる。