上野寛永寺(東叡山)

戊辰戦争の際、旧幕府軍の彰義隊が立てこもり、大村益次郎率いる新政府軍に1日で鎮圧された江戸の寺院はどこか?
カテゴリ:
重要度
★★

上野寛永寺(東叡山) (うえのかんえいじ / とうえいざん)

1625年創建

【概説】
江戸の上野台地に位置する天台宗の関東総本山であり、徳川将軍家の菩提寺。江戸城の鬼門(北東)を守護する祈願寺として創建され、幕末には戊辰戦争の局地戦である「上野戦争」の舞台となった地。

「東の比叡山」としての創建と徳川将軍家菩提寺への発展

寛永2年(1625年)、徳川3代将軍徳川家光の帰依を受けた天台宗の僧・天海(慈眼大師)によって、江戸城の鬼門にあたる上野台地に創建された。京都の比叡山延暦寺が皇城(京都御所)を守護するのにならい、江戸城と将軍家を守護する祈願寺として「東の比叡山」を意味する東叡山の山号が与えられ、当時の元号から「寛永寺」の寺号が許された。

承応3年(1654年)には、後水尾天皇の皇子である守澄法親王が初代の輪王寺宮(東叡山主)として入山し、日光山(東照宮)と比叡山をも統括する「三山管領宮」の制度が確立した。これにより寛永寺は、朝廷と幕府を結ぶ宗教的・政治的な最高権威を帯びるようになる。また、4代将軍徳川家綱の葬儀が行われて以降は、芝の増上寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺となり、歴代15代のうち6人の将軍(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)がここに葬られ、その境内は広大な伽藍群を擁する壮麗なものとなった。

幕末の悲劇と上野戦争の勃発

江戸時代を通じて最高峰の格式を誇った寛永寺であったが、幕末の動乱期には一転して激戦の地となった。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで敗れ江戸へ逃れてきた15代将軍徳川慶喜は、新政府軍への恭順の意を示すため、寛永寺の大慈院に籠もって謹慎生活を送った。しかし、将軍の助命と徳川家の存続を訴え、新政府に敵対する旧幕府の不満分子らは合流して彰義隊を結成した。

慶喜が水戸へ退去した後も、彰義隊は寛永寺の貫首であった輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)を擁立し、寛永寺を一大拠点として上野の山に立てこもった。これに対し、新政府軍の軍務総管に就いた大村益次郎は近代的な戦略のもと、同年5月15日に総攻撃を決行(上野戦争)。新政府軍は加賀藩邸(現在の東京大学構内)などからアームストロング砲をはじめとする最新鋭の火砲を浴びせ、彰義隊をわずか1日で壊滅させた。この戦闘の最中、寛永寺の本堂である根本中堂をはじめとする主要伽藍の大部分が炎上、焼失した。

戦後の変遷と「上野恩賜公園」としての新生

上野戦争による荒廃後、新政府によって寛永寺の広大な境内地は没収された。当初は軍事病院などの建設計画もあったが、オランダ人医師ボードワンが景観の美しさと歴史的価値を認め、公園として保存することを強く提言した。これを受けて1873年(明治6年)、太政官布告によって日本初の近代都市公園である上野恩賜公園(上野公園)が開園することとなった。

かつての寛永寺の境内地は、東京国立博物館、国立科学博物館、東京都美術館、上野動物園などの文化施設へと生まれ変わり、近代日本の文化・芸術の拠点としての役割を担うようになった。現在の寛永寺根本中堂は、明治時代に川越の喜多院から本地堂を移築して再建されたものである。江戸の守護から近代国家の文化拠点へと姿を変えたその歴史は、激動の明治維新と日本の近代化を象徴している。

私が間違っているかもしれない 山奥で隠遁生活を送った経済人の最も感動的な人生体験

山奥での隠遁生活を経て辿り着いた、現代人が本当に求める「手放すこと」の豊かさと平穏を説く思索の書。

上野彰義隊 墓守の伝承

埋もれた歴史の闇に光を当て、彰義隊の最期と墓守たちの矜持を綴ることで時代の真実を浮き彫りにした力作。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 応永の外寇ののち、国交回復などのために朝鮮王朝から日本へ派遣された使節を何というか?
Q. 大宝律令によって定められた、中央政府の行政および軍事機構の全体構成を示す言葉は?
Q. 舒明天皇が建立した百済大寺を起源とし、天武天皇の時代に国家の筆頭寺院として改称された寺院はどこか?