二官八省一台五衛府 (にかんはっしょういちだいごえふ)
【概説】
大宝律令の制定によって確立された、古代律令国家における中央政府の行政・軍事機構の全体像を示す言葉。国家祭祀を司る神祇官と政務を統括する太政官の「二官」を中心に、実務を分担する「八省」、官吏の監察を行う「一台(弾正台)」、宮廷の警備にあたる「五衛府」から構成される、天皇を中心とした中央集権的な官僚機構の骨格である。
「神祇」と「政務」の並立――日本独自の「二官」構造
日本の律令制は中国の唐の律令(三省六部制)を模範として導入されたが、日本の実情や伝統的な思想に合わせて随所に独自の改変が加えられた。その最たる例が、最高機関としての二官(神祇官・太政官)の設置である。
唐の官制では、祭祀を司る部署(礼部など)は皇帝直属の行政組織の一部に組み込まれていた。しかし日本では、天皇の宗教的・呪術的権威を重視し、神々を祀る神祇官を、国家の政務全般を統括する太政官と同格、あるいはそれ以上の地位に置く「祭政二元化(神仏習合が進む以前の祭政一致)」の体制を構築した。この神祇官の重視は、天皇が神孫として支配を行う「神国思想」の根幹を制度的に裏付けるものであった。
実務を担う「八省」と唐風官制の受容
行政実務を分担した八省は、太政官の下に置かれ、左右の弁官局によって実務的に管理された。左弁官は中務省・式部省・治部省・民部省の四省を、右弁官は兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の四省をそれぞれ管轄した。これも唐の「六部」を統合・再編し、より日本の宮廷政治に適した形にカスタマイズされたものである。
例えば、詔書の作成などを担う中務省は八省の筆頭とされ、天皇の側近として強い権限を持った。また、官吏の人事を扱う式部省や、地方の戸籍・租税を掌る民部省などは、律令国家の官僚制と財政基盤を支える最重要部署として位置づけられた。このように、合議制の頂点である太政官と、実務を細分化した八省が緊密に連携することで、貴族が官僚として機能するシステムが整備されたのである。
治安と秩序を維持する「一台五衛府」
中央集権的な統治を盤石にするため、制度の歪みや外部からの脅威を排除する監視・防衛機構も整備された。
一台(弾正台)は、官吏の不正糾明や風俗の取締りを行う監察機関であり、天皇直属の組織として官僚の綱紀粛正に努めた。そして五衛府(衛門府、左右衛士府、左右兵衛府)は、都の警備や宮廷の門、天皇の護衛を担当する軍事組織である。これらは地方から徴発された防人や兵士、あるいは郡司の子弟らによって構成され、天皇の身辺安全を確保するとともに、都における軍事的な反乱を防ぐ抑止力として機能した。(なお、五衛府はのちの平安時代に、左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府の「六衛府」へと再編されることとなる)。
国家制度としての歴史的意義とその後の変遷
二官八省一台五衛府の確立は、それまでの豪族による「氏姓制度」から、天皇を頂点とする「官僚制国家」への転換を視覚的・制度的に完成させた。血統や門地だけでなく、国家の役職(官職)とそれに応じた位階(冠位・位階制度)によって貴族の地位が規定される仕組みがここに完成したのである。
平安時代中期以降、政治の実態が摂関政治や院政へと移行し、検非違使や蔵人頭といった令外の官(りょうげのかん)が実権を握るようになると、二官八省の多くの官職は名誉職(形骸化)していった。しかし、この組織の枠組み自体は国家の形式的な基本骨格としてその後も残り続け、明治維新における近代官制への移行(初期の太政官制や神祇官の復活など)に至るまで、日本の政治史に深甚な影響を与え続けた。