重慶 (じゅうけい)
【概説】
日中戦争期において、日本軍の侵攻により首都南京を追われた蒋介石率いる中華民国国民政府が、最終的に遷都した四川省の都市。険峻な地勢に守られた天然の要塞であり、連合国からの物資支援(援蒋ルート)を受けながら、終戦まで頑強に抵抗を続けた抗日戦の最高拠点である。
「持久戦」への移行と重慶遷都
1937年(昭和12年)7月に勃発した日中戦争において、日本軍は圧倒的な軍事力をもって華北や沿海部の主要都市を次々と占領した。同年末に首都南京が陥落する事態に至っても、蒋介石率いる国民政府(重慶国民政府)は屈服せず、政府機能を中部の武漢を経て、中国奥地の四川省重慶へと移転させた。1938年(昭和13年)に正式に臨時首都とされた重慶は、長江と嘉陵江の合流点に位置し、周囲を険しい山々に囲まれた「霧の都」として知られる。日本軍の地上部隊の侵入を拒むこの天然の要塞を拠点に、蒋介石は広大な領土と人口を頼みとする持久戦(長期戦)の構えを確立した。
重慶爆撃と抗戦意思の維持
陸路からの重慶攻略が困難であると判断した日本軍は、空爆による精神的屈服(戦意喪失)を狙い、1938年から1943年にかけて組織的な大規模空爆(重慶爆撃)を敢行した。これは軍事施設だけでなく、一般市民が居住する市街地をも標的とした大規模な無差別都市爆撃(戦略爆撃)の先駆的な事例であった。この爆撃により重慶は壊滅的な被害を受け、多数の民間人犠牲者を出したが、国民政府は地下防空壕網を張り巡らせて抗戦を継続した。かえって日本軍の非人道的な空爆は国際的な非難を浴びることとなり、中国側の抗戦ナショナリズムをいっそう高揚させる結果となった。
「援蒋ルート」と太平洋戦争への連動
重慶政府が長期にわたる抗戦を継続できた背景には、英米仏ソなどの大国による軍事・経済援助が存在した。この物資補給路は「援蒋ルート」と呼ばれ、なかでも仏領インドシナやビルマ(現ミャンマー)を経由するルートは重慶にとっての生命線であった。日本は重慶政府を孤立させて戦争を終結(日中和平)に導くため、これらのルート遮断を画策し、1940年(昭和15年)の北部仏印進駐をはじめとする南方進出へと踏み切ることになる。しかし、この行動はアメリカなどの対日警戒感を決定的に強め、のちの太平洋戦争(大東亜戦争)へと繋がる外交的孤立を招く要因となった。