汪兆銘(汪精衛) (おうちょうめい(おうせいえい)
【概説】
蔣介石と対立して重慶を脱出し、1940年に日本の支援を受けて南京に親日的な新政権を樹立した中国の政治家。かつては孫文の側近として中国国民党の重鎮であったが、日中戦争の長期化に伴い「和平救国」を掲げて日本と結んだ。日本の対中工作の最大の標的となったが、戦後は「漢奸(売国奴)」として歴史的に断罪されることとなった。
革命家としての台頭と蔣介石との権力闘争
汪兆銘(本名が兆銘、筆名・号が精衛)は、清末に日本へ留学して法政大学に学び、孫文が結成した中国同盟会に参加した。1910年には清朝の摂政王・載灃(さいほう)の暗殺を企てて投獄されたが、死を覚悟したその姿が広く知れ渡り、若き革命家として絶大な名声を獲得した。辛亥革命後は孫文の最も親しい側近の一人となり、1925年の孫文の死に際してはその「遺嘱(遺言)」を起草したことでも知られる。
孫文の死後、汪兆銘は広東国民政府の常務委員長に就任するなど、文民指導者として国民党左派を牽引した。しかし、北伐を通じて軍事力を掌握した蔣介石(国民党右派)が台頭すると、両者の間で激しい権力闘争が勃発する。1927年の国共分裂の際にも武漢国民政府のトップとして蔣介石の南京国民政府と対立したが、最終的には軍事力と資金力に勝る蔣介石に実権を奪われ、国民党副総裁というナンバーツーの地位に甘んじることとなった。
日中戦争の勃発と「和平工作」への傾斜
1937年(昭和12年)に日中戦争(支那事変)が勃発すると、首都南京は陥落し、国民政府は武漢、のちに内陸の重慶へと後退して徹底抗戦を続けた。しかし、近代兵器を備えた日本軍との圧倒的な戦力差を目の当たりにした汪兆銘は、抗戦の継続によって中国が焦土と化し、その混乱に乗じて共産党が勢力を拡大することを強く危惧した。彼は側近らと「低調倶楽部」と呼ばれるグループを形成し、「抗戦建国」を掲げる蔣介石に対し、次第に「和平救国」の構想を抱くようになった。
一方、戦争の泥沼化に苦しんでいた日本の近衛文麿内閣は、蔣介石政権の分断を図るため汪兆銘に目をつけ、極秘裏に接触を図った。1938年11月、日本政府が「善隣友好・共同防共・経済提携」を掲げる「第二次近衛声明(東亜新秩序声明)」を発表すると、汪兆銘はこれに呼応する形で重慶を脱出し、仏領インドシナのハノイへ飛んだ。そこで彼は日本との和平交渉を呼びかける「艶電(えんでん)」を発表したが、抗日ナショナリズムが沸騰していた中国国内の世論の支持を得ることはできず、蔣介石からは国民党の永久除名処分を受けた。
南京国民政府の樹立と傀儡化の悲劇
汪兆銘は日本政府と対等な和平条約を結び、それをもって中国国内の和平派を結集する青写真を描いていた。しかし、近衛内閣の突然の総辞職や日本軍部の強硬姿勢により、その構想は大きく狂わされた。日本側の要求は、華北への日本軍の防共駐屯や広範な経済的特権の承認など、かつての近衛声明を大きく逸脱する過酷なものとなっていた。
後戻りできなくなった汪兆銘は、日本の影佐禎昭大佐らの工作(梅工作)による支援のもと、1940年(昭和15年)3月に南京で新たな国民政府(汪兆銘政権)を樹立した。同年末には日本との間に「日華基本条約」を締結したが、これは実質的に中国の主権を著しく制限する不平等条約であった。政権の要職は旧国民党の和平派で占められたものの、実態は日本の占領地支配に組み込まれた傀儡(かいらい)政権に過ぎず、独自の軍事力や財政基盤を欠いていたため、広範な中国民衆の支持を獲得することは最後までできなかった。
客死と歴史的評価の変遷
太平洋戦争の勃発後、汪兆銘政権は1943年に米英に対して宣戦布告し、日本の大東亜共栄圏構想に協力する姿勢を示した。しかし、戦局が日本の敗色濃厚となる中、汪兆銘は持病の多発性骨髄腫を悪化させ、治療のため日本へ渡ったが、1944年(昭和19年)11月に名古屋帝国大学附属病院で客死した。
翌1945年の日本の敗戦に伴い、南京国民政府は崩壊し、彼の側近たちは次々と蔣介石政権によって「漢奸(売国奴)」として裁かれ、処刑された。汪兆銘自身の墓も蔣介石の命によって爆破され、遺体は焼き捨てられた。戦後の中国(中華民国・中華人民共和国の双方)において、汪兆銘は「中華民族最大の裏切り者」として完全な悪役として位置づけられている。近年の一部歴史学研究においては、彼の行動の背景にあった「亡国から民衆を救う」という動機や、過酷な条件下で日本の要求をいかに軽減しようとしたかという苦悩に対する再評価の動きもみられるが、日中戦争という総力戦の渦中において侵略国と結んだという重い事実は、今なお彼の歴史的評価を決定づけている。