新国民政府(南京政府) (しんこくみんせいふ / なんきんせいふ)
【概説】
日中戦争期の1940年、日本の軍事的な支援を背景に、汪兆銘を首班として南京に樹立された親日政権。蔣介石率いる重慶の国民政府に対抗して「正統な国民政府」を自称したが、実態は日本の国策を体現するための傀儡政権であった。
日中戦争の泥沼化と汪兆銘の「和平救国」
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争は、日本軍の予想に反して長期化した。近衛文麿内閣は「国民政府(蔣介石政権)を対手とせず」とする声明を発表し、自ら和平交渉のルートを閉ざしたため、事態は完全に泥沼化していた。こうした中、日本陸軍は蔣介石政権の分断を図り、国民党のナンバー2であった汪兆銘(汪精衛)に接近を試みる。汪兆銘もまた、抗戦による中国の荒廃を憂慮し、反共主義の立場から日本との早期和平を模索していた。
1938年12月、汪兆銘は重慶を脱出し、ハノイを経て日本側との本格的な交渉に入った。彼はみずからを首班とする新たな国民政府を組織し、日本との間に和平を成立させることで、中国の主権回復と東アジアの安定を図ろうとした(和平救国運動)。しかし、この動きは日本側にとって、戦争終結に向けた都合の良い「工作」として利用されることとなった。
新国民政府の樹立と日華基本条約
1940年3月、汪兆銘はかつての国民政府の首都であった南京において、新たな「国民政府(新国民政府)」の樹立を宣言した。この政権は、南京にすでに存在していた親日の中華民国臨時政府(北京)や中華民国維新政府(南京)を吸収合併する形で組織され、蔣介石の重慶政府に対抗する「正統な中華民国政府」の体裁を整えた。
同年11月、日本政府は新国民政府を正式に承認し、日華基本条約を締結した。この条約において、汪政権は満洲国の承認、防共を名目とする日本軍の華北・内蒙古への駐留、さらには日本による中国国内の資源開発権などを認めさせられた。この極めて不平等な内容により、新国民政府が日本の軍事力を背景に置いた「傀儡(かいらい)政権」であることは内外に明白となり、中国民衆の多くは汪兆銘らを「漢奸(国賊)」として激しく非難した。
「対等同盟」への変貌と政権の崩壊
1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、日本政府はアジアにおける戦争の大義(大東亜共栄圏の構築)を整合させるため、汪政権への懐柔策を強化した。1943年、新国民政府は米英両国に対して宣戦を布告し、日本との同盟関係を強調した。これに伴い、日本は汪政権の権威を高める目的で、不平等条約の改正(租界の返還や治外法権の撤廃)を進め、同年の大東亜会議にも汪兆銘を公式に参加させた。
しかし、こうした「対等同盟」の演出も、実質的な軍事・経済的支配が変わるものではなかった。戦況の悪化とともに、物資の強制買い上げや日本軍による治安維持が強化され、汪政権に対する中国民衆の支持は完全に失われた。1944年11月、汪兆銘が病気治療中の名古屋で病死すると、陳公博が後継となったが政権の求心力は底をついていた。1945年8月、日本の敗戦と無条件降伏に伴い、新国民政府は解散を宣言して崩壊した。戦後、政権の幹部たちは「漢奸」として重慶政府によって過酷に処刑・弾圧されることとなった。