シャム
【概説】
現在のタイ王国にあたる地域を指す歴史的呼称。東南アジアにおける朱印船貿易の主要な交易相手国であり、首都アユタヤには大規模な日本町が形成され、山田長政らが活躍した地域である。
朱印船貿易の展開と日シャム関係
16世紀末から17世紀初頭にかけて、織田信長や豊臣秀吉、そして徳川家康による天下統一が進むなか、日本は海外交易を積極的に推進した。徳川家康が創始した朱印船貿易において、東南アジア諸国の中でも特に緊密な関係を築いたのが、アユタヤ王朝支配下のシャムであった。
当時の日本にとって、シャムは軍事・実用面で極めて重要な交易相手であった。日本からは主に銀、銅、鉄製品、漆器などが輸出され、シャムからは武具の装飾に不可欠な鹿皮や、刀剣の柄に用いられた鮫皮(実際はアカエイの皮)、赤色染料となる蘇木(そぼく)などが大量に輸入された。徳川家康はアユタヤの国王(ソンタム王など)と直接国書を交わし、友好関係を維持した。
アユタヤ日本町の繁栄と山田長政
貿易の活発化に伴い、アユタヤのチャオプラヤ川沿いには日本人居住区である日本町(日本人町)が形成された。全盛期には1000〜1500人、一説には数千人規模の日本人が暮らしていたとされる。住民には商人だけでなく、関ヶ原の戦いや大坂の陣などで職を失った浪人や、禁教令から逃れたキリシタンなども多く含まれていた。彼らはアユタヤ王室に傭兵として雇われ、その高い戦闘力で王朝の防衛や王位継承闘争において重要な役割を果たした。
その中で台頭した代表的な人物が駿河国出身の山田長政である。長政は傭兵隊長として頭角を現し、当時の国王から寵愛を受けて「オークヤー・セーナーピムック」という高位の官爵を授けられ、日本町の首領となった。しかし、国王の死後に発生した王位継承をめぐる宮廷陰謀に巻き込まれ、1630年に毒殺された。この事件の前後、アユタヤ日本町は一度焼き払われるなど大きな打撃を受けた。
「鎖国」による関係の変容
その後、日本町は一時的に再建されたものの、江戸幕府が寛永12年(1635年)に日本人の海外渡航および帰国を全面的に禁止(いわゆる「鎖国」政策の本格化)したため、日本からの新たな流入が完全に途絶えた。残された現地の日本人たちは現地のタイ人と同化していき、アユタヤ日本町は18世紀初頭までに自然消滅した。
渡航制限後は、長崎に平底の「シャム船」と呼ばれる唐船(中国系の船)が来航する形で間接的な貿易が継続され、日本は依然としてシャム産の物産を輸入し続けた。