五稜郭の戦い(箱館戦争)

榎本武揚ら旧幕府軍の残党が蝦夷地へ逃れ、函館の洋式城郭に立てこもって新政府軍と戦った戊辰戦争の最後の戦いを何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
箱館戦争(Wikipedia)

五稜郭の戦い(箱館戦争) (ごりょうかくのたたかい(はこだてせんそう)

1868年〜1869年

【概説】
戊辰戦争の最終局面において、旧幕府脱走軍と新政府軍との間で戦われた激しい戦闘。榎本武揚率いる旧幕府海軍や新選組の残党らが蝦夷地(北海道)の五稜郭を拠点に抵抗したが、新政府軍の圧倒的な軍事力の前に降伏した。この戦いの終結により、1年半に及んだ戊辰戦争が終結し、明治新政府による国内統一が完成した。

「蝦夷共和国」の樹立と旧幕府軍の意図

1868年(明治元年)8月、徳川宗家の静岡藩移封にともなう処遇に不満を持つ旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は、開陽丸をはじめとする旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出した。道中で東北地方の戦争(会津戦争など)に敗れた旧幕府側の残党や、土方歳三率いる新選組などを吸収しながら北上し、10月に蝦夷地(北海道)の鷲ノ木に上陸した。

旧幕府軍は、新政府が派遣した箱館府知事の軍を破り、日本初の西洋式稜堡式(星型)城郭である五稜郭を占領した。彼らは同年12月、日本で初となる「入札(選挙)」によって榎本を総裁とする独自の政権(俗に蝦夷共和国と呼ばれる)を樹立した。榎本の意図は、旧幕府遺臣の救済のために蝦夷地を開拓することであり、新政府に対してこの政権を事実上の割譲地として公認させることを求めた。また、イギリスやフランスなどの列強に対して事実上の交戦団体としての承認を得ようと外交交渉を試みている。

新政府軍の総攻撃と箱館の陥落

明治新政府は榎本政権を認めず、1869年(明治2年)春、参謀の黒田清隆らを中心に大規模な征討軍を派遣した。新政府軍は最新の装甲艦(甲鉄艦)を導入して制海権を握り、陸海の両面から旧幕府軍への攻勢を強めた。宮古湾海戦や箱館湾海戦を経て、新政府軍は蝦夷地への上陸に成功し、五稜郭への包囲網を縮めていった。

激しい戦闘が続く中、旧幕府軍の主力戦闘員として縦横無尽の活躍を見せていた新選組副長の土方歳三が、箱館奪還を目指す最中に一本木関門付近で弾丸に倒れ戦死した。カリスマ的指導者を失った旧幕府軍の士気は低下し、孤立無援となった。これ以上の流血は無意味と判断した榎本武揚は、黒田清隆からの降伏勧告を受け入れ、1869年5月18日に五稜郭を開城して降伏した。これにより、鳥羽・伏見の戦いから始まった一連の戊辰戦争は完全に終結した。

箱館戦争終結の歴史的意義と戦後処理

五稜郭の戦いの終結は、旧幕府勢力による組織的な武装抵抗が完全に途絶えたことを意味した。これによって明治新政府は名実ともに日本全土を支配する唯一の正統政府となり、版籍奉還廃藩置県といった近代中央集権国家の形成に向けた改革へと本格的に舵を切ることが可能となった。

また、戦後処理において降伏した榎本武揚らは、その卓越した国際法の知識や科学技術の才能を惜しんだ黒田清隆らの助命運動によって一命を取り留めた。数年の投獄を経て赦免された榎本は明治政府に登用され、駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約の締結に尽力したほか、外務大臣などの要職を歴任し、近代日本の外交や産業発展に大きく貢献することとなった。この融和的な戦後処理は、旧幕府側の優秀な人材を排除せず、近代国家建設のために総動員するという新政府の方針を示す好例となった。

幕末維新論集 11

激動の時代を駆け抜けた志士たちの息吹と、北の大地で終焉を迎えた旧幕府軍の悲劇を克明に辿る論考の集大成。

箱館戦争

新政府軍との最後の死闘を経て、箱館という土地が抱える歴史的重みと壮絶な最期を多角的に掘り下げた渾身の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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