五稜郭

戊辰戦争の最終局面で、榎本武揚や土方歳三ら旧幕府軍の残党が立てこもり、新政府軍と戦った函館の星形城郭はどこか?
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重要度
★★

五稜郭 (ごりょうかく)

1864年

【概説】
幕末に蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)に築かれた、日本初の西洋式(稜堡式)城郭。北方防備と対外交渉の拠点として江戸幕府により建設され、のちに戊辰戦争の最終段階である箱館戦争の舞台となった歴史的要塞である。

開国と北辺防備:五稜郭の建設背景

五稜郭の建設は、幕末の開国に深く関係している。1854年(安政元年)の日米和親条約の締結にともない、下田とともに箱館が即時開港されることとなった。これにより、箱館は北方警備(特にロシアに対する防備)と外交交渉の最前線となり、幕府は箱館奉行を再置して統治の強化を図った。

当初、箱館奉行所は港の近くに置かれていたが、艦船からの砲撃に対して脆弱であったため、内陸部への移転が計画された。こうして設計されたのが五稜郭である。設計を担当したのは、伊予大洲藩出身の蘭学者・武田斐三郎(たけだあやさぶろう)であった。彼はヨーロッパの軍事技術書を参考に、大砲による攻撃への防御に適した稜堡式(りょうほうしき)と呼ばれる星形の要塞を設計した。この形状は、城壁に死角をなくし、どの角度から迫る敵に対しても効果的に十字砲火を浴びせることができる、当時の最新の軍事思想に基づいたものであった。建設は1857年に始まり、1864年(元治元年)にほぼ完成して箱館奉行所が移転した。

箱館戦争の舞台:旧幕府軍の抵抗と戊辰戦争の終結

五稜郭が歴史の表舞台で最大の役割を果たしたのは、明治維新期の戊辰戦争においてである。1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いから始まった内戦は東北地方へと拡大し、同年の秋には新政府軍がほぼ全域を平定した。しかし、旧幕府の海軍副総裁であった榎本武揚(えのもとたけあき)らは、旧幕府脱走軍を率いて艦隊で蝦夷地へ渡航。箱館を占領し、五稜郭をその本拠地とした。

榎本らは五稜郭を拠点に、入札(選挙)によって閣僚を選出する独自の政権(いわゆる「蝦夷共和国」)を樹立し、新政府に対して蝦夷地の開拓と旧幕臣の救済を求めた。しかし、新政府軍はこれを認めず、1869年(明治2年)春に大規模な討伐軍を派遣した。これにより、戊辰戦争の最終局面である箱館戦争が勃発する。

新政府軍の圧倒的な軍事力と近代兵器の前に、旧幕府軍は次第に追い詰められていった。旧新選組副長の土方歳三らが陣頭指揮を執って奮戦したものの、土方の戦死などもあって旧幕府軍は五稜郭に孤立。同年5月17日、榎本武揚らは降伏を決断し、五稜郭は開城された。これにより、足かけ2年に及んだ戊辰戦争は完全に終結し、明治新政府による日本統一が成し遂げられることとなった。

近代遺産としての五稜郭

箱館戦争の終結後、五稜郭は陸軍省の所管となり、練兵場などとして使用された。大正時代に入ると、1914年(大正3年)に「五稜郭公園」として一般に開放され、市民の憩いの場となった。1952年(昭和27年)には国の特別史跡に指定され、学術的・歴史的価値が世界的に認められている。また、2010年(平成22年)には、かつて郭内の中央に存在し、箱館戦争時に解体された箱館奉行所の建物が一部復元され、当時の歴史を伝える貴重な文化遺産として多くの観光客を集めている。

箱館戦争全史

戊辰戦争の終焉を舞台に、幕末の志士たちが命を懸けて駆け抜けた激動の歴史を緻密に辿り直す壮大な戦記。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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