近代天皇制国家
【概説】
明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至るまで、日本において構築・維持された国家体制。天皇を統治権の総攬者かつ神聖不可侵の主権者と仰ぎ、近代化と中央集権化を推し進めた。欧米列強に対抗するための富国強兵策と、伝統的な権威を融合させた独自の近代国家モデルである。
大日本帝国憲法による統治構造の法的確立
近代天皇制国家の法的基盤となったのが、1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法である。同憲法第1条で日本は「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定され、第3条では天皇の身体・権威が「神聖不可侵」とされた。
天皇は立法・行政・司法の三権を掌握する統治権の総攬者と位置づけられただけでなく、議会の協賛(同意)を経ずに発動できる強力な天皇大権を保持した。特に、陸海軍の指揮権である統帥権の独立は、後年において内閣や議会による軍部統制を困難にし、軍部の暴走を許す制度的な要因となった。しかし、実際の政治運用においては、元老や内閣、枢密院などの輔弼(ほひつ)機関が天皇の名において権力を分有し、政治を主導する構造となっていた。
国家神道と「国体」の創出による国民統合
急速な近代化と西欧化は、国内の伝統的な社会秩序を揺るがす恐れがあった。そこで明治政府は、天皇を中心とする精神的な統合を不可欠と考え、独自のイデオロギー構築に努めた。その中核となったのが、神道を国家の宗祀(そうし)として位置づける国家神道体制である。
また、1890年(明治23年)に発布された教育勅語は、儒教的道徳観と「忠君愛国」の精神を合一させ、教育を通じて国民(臣民)に内面化された。これにより、天皇を頂点とする日本国家そのものを一つの家族とみなす「家族国家観」が形成され、国家のために命を捧げることを厭わない国民意識、すなわち「国体」思想が定着していった。
帝国の拡大と近代天皇制国家の限界
近代天皇制国家の体制は、日清戦争や日露戦争における勝利、そして不平等条約の改正など、日本が国際的な強国(列強)へと飛躍する原動力となった。しかし、昭和期に入ると世界恐慌をはじめとする国内外の危機に対して、憲法上の制度的欠陥が露呈することとなった。
天皇の権威を利用して議会政治や政党政治を排斥しようとする動きが強まり、さらに軍部が統帥権の独立を盾に暴走を続けた。天皇自身が軍部の行動を直接コントロールすることは容易ではなく、国家の決定機関としての機能を十分に果たせぬまま、日本は泥沼のアジア太平洋戦争へと突入していった。1945年(昭和20年)の敗戦により、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導による戦後改革が進められ、日本国憲法の制定とともに大日本帝国憲法下の近代天皇制国家は解体され、天皇を主権者としない「象徴天皇制」へと移行した。