福岡孝弟

土佐藩出身で、由利公正の原案を修正し、大名による列侯会議の要素を強めた五箇条の誓文の第2案を起草した人物は誰か?
カテゴリ:
重要度
★★

福岡孝弟 (ふくおかたかちか)

1835年〜1919年

【概説】
土佐藩出身の幕末・明治期の政治家。由利公正が作成した「五箇条の誓文」の原案を修正し、諸侯合議(列侯会議)の性格を強めた第2案を起草したことで知られる。維新後は参与や参議、文部卿などの要職を歴任し、近代日本の国家制度の構築に貢献した。

公議政体論の推進と大政奉還への尽力

福岡孝弟は天保6(1835)年、土佐藩士の家に生まれた。藩主の山内容堂に重用され、後藤象二郎らとともに藩政改革に携わった。幕末の動乱期には、坂本龍馬が示した「船中八策」の影響を受け、大名たちの合議によって新国家を運営する公議政体論を強く支持するようになる。慶応3(1867)年には、後藤らとともに将軍・徳川慶喜に対して大政奉還を勧告する建白書を提出。平和的な政権交代と新政府創設に向けた土佐藩の外交・実務において指導的な役割を果たした。

五箇条の誓文の修正と「福岡案」の意義

明治新政府が発足すると、福岡は参与に任命され、新国家の基本方針を示す「五箇条の誓文」の起草に関わった。まず、越前藩出身の由利公正が五箇条からなる原案(由利案)を起草した。これに対し福岡は、土佐藩が掲げていた公議政体論を色濃く反映させるため、第一条を「列侯会議をおこし万機公論に決すべし」と修正した(福岡案)。これは、大名(諸侯)たちの合議による政権運営を企図したものであった。その後、この福岡案は長州藩の木戸孝允によって、より範囲を広げた「広く会議を興し」へと再修正され、明治元(1868)年3月に明治天皇が神々に誓う形式で発布された。

新国家の制度設計と明治政府における活躍

福岡の政治的功績は、五箇条の誓文にとどまらない。新政府の過渡期における政治体制を規定した『政体書』の起草にも、副島種臣とともに参画した。アメリカ合衆国憲法を参考に、三権分立や官職の公選(互選)制度を取り入れたこの政体書は、当時の日本にとって画期的な政治指針となった。明治政府において、福岡は司法卿、文部卿、元老院議官、参議、枢密顧問官などの重職を歴任。学制の整備や法制度の近代化に大きく寄与し、大正8(1919)年に84歳で没するまで、近代日本の土台作りに一貫して携わり続けた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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