祭政一致 (さいせいいっち)
【概説】
明治新政府が古代の天皇親政を理想とし、神道儀式(祭祀)と国家の政治を一体のものとして行うとした基本方針。王政復古の精神に基づき、天皇の権威を高めて国民精神の統合を図るための思想的・制度的基盤となった。
王政復古の理想と平田国学の影響
明治維新によって成立した新政府は、250年以上続いた徳川幕府による武家政治を否定し、天皇を中心とする新たな国家体制を構築する必要に迫られた。その際、新政府が掲げたスローガンが「王政復古」であり、その理想像は神武天皇の建国にさかのぼる「神武創業の始」に求められた。
この復古主義的な姿勢の背景には、江戸時代後期に平田篤胤らによって大成された復古神道(平田国学)の強い影響があった。復古神道は、儒教や仏教などの外来思想が伝来する以前の、日本固有の「古道」を重んじる思想である。新政府の平田派国学者たちは、神々を祀る「祭祀」と、地上の秩序を整える「政(まつりごと)」は一体であるべきだとする「祭政一致」を主張し、新国家の基本方針として採用させた。
神祇官の復活と神仏分離
祭政一致の理念を具体化するため、新政府は1868(明治元)年、古代の律令制にならって神祇官を復活させた。この神祇官は、最高行政機関である太政官と同等、あるいはそれ以上の地位を与えられ、国家の諸祭祀を司ることとなった。これにより、神職が官僚として位置づけられ、国家が直接神道を統制する体制が整えられた。
また、祭政一致を徹底するためには、中世以来続いてきた神道と仏教が融合した「神仏習合」の慣習を排除する必要があった。そのため新政府は神仏分離令を排出し、神社から仏教的要素を排除して神道を独立させた。この政策は地方において過激な廃仏毀釈運動を引き起こし、多くの寺院や仏像が破壊されるという社会的混乱を招くこととなった。
国教化政策の挫折と「国家神道」への変容
1870(明治3)年、新政府は「大教宣布の詔」を発布し、天皇の権威のもとで神道を国民に強制し、キリスト教などの外来宗教に対抗しようとする大教宣布運動を展開した。神祇官は神祇省、さらに教部省へと改組され、宣導師を動員して神道教育が推し進められた。
しかし、この強引な思想統一運動は、近代的教化手法の不備や、仏教勢力による反発、さらにはキリスト教の公認を求める欧米列強からの外交圧力によって行き詰まることとなった。その結果、1870年代後半には政教分離の原則を一部受け入れざるを得なくなり、祭政一致による直接的な神道国教化路線は修正を余儀なくされた。その後、政府は「神道は宗教ではなく、国家の宗祀(市民の義務)」とする論理を構築し、後の国家神道の形成へとつなげていくこととなった。