副島種臣 (そえじまたねおみ)
【概説】
肥前国(佐賀藩)出身の幕末・明治期の政治家、外交官。明治新政府において福岡孝弟とともに「政体書」を起草し、初期の国家体制の構築に尽力した人物。外務卿として人道主義的な外交や対等な日清関係の樹立に功績を挙げたが、のちに征韓論をめぐる政変で下野し、自由民権運動の端緒を開くこととなった。
幕末期の活動と「政体書」の起草
副島種臣は、佐賀藩の藩校である弘道館に学び、尊王攘夷派の活動家として頭角を現した。実兄である枝吉神陽が結成した「義祭同盟」に参加し、のちの江藤新平や大隈重信らとともに、尊王論と国学に基づく政治思想を培った。幕末期には長崎で英学を修め、欧米の政治制度、特にアメリカ合衆国の憲法制度に対する深い知見を得ることとなった。
明治維新によって新政府が樹立されると、副島はその知識を買われ、参与や制度事務局判事などの要職を歴任した。1868年(慶応4年)には、土佐藩出身の福岡孝弟とともに、新政府の官制を定めた政体書を起草した。これは五箇条の誓文の精神を具現化したものであり、アメリカ合衆国憲法を参考に、三権分立の導入や官吏の互選(選挙)制度を盛り込んだ、極めて先進的な試みであった。この政体書の制定により、太政官制を基本としつつも、権力の集中を防ぐ初期の新政府の骨格が形成された。
外務卿としての自主外交とマリア・ルース号事件
1871年(明治4年)、副島は外務卿に就任し、日本の外交を主導する立場となった。彼の外交姿勢は、欧米列強に対して卑屈にならず、東洋の自立と対等な外交関係を重んじる「自主外交」であった。その代表例が、1872年に横浜港で起きたマリア・ルース号事件の処理である。これは、ペルー船籍の船に監禁されていた清国人苦役労働者(クールー)を、日本政府が人道的な観点から救出し、解放した事件である。ペルー側の猛抗議に対し、副島は国際仲裁裁判を提起してこれに勝利し、国際社会において日本の法権の独立と文明国としての姿勢を強く印象づけた。
さらに副島は1871年に調印された日清修好条規の批准書交換のため、1873年に全権大使として北京に赴いた。当時、欧米の使節が清朝皇帝への謁見の際に「跪拝(三跪九叩頭の礼)」を求められて難航していたなか、副島は粘り強い交渉の末に立礼での謁見を認めさせ、外国使臣の筆頭として同治帝に拝謁した。これは清朝を中心とする東アジアの伝統的な華夷秩序を打破し、対等な国際関係を創出する画期的な成果であった。
明治六年の政変と民撰議院設立建白
副島は外交面で大きな成果を上げたものの、1873年(明治6年)に勃発した征韓論争において西郷隆盛や板垣退助らの征韓派と同調した。当時、清国との交渉において、台湾での琉球漂流民殺害事件への抗議を通じて朝鮮半島への影響力拡大を視野に入れていた副島は、政府内の閣議決定をめぐる対立に敗れ、西郷らとともに一斉に下野した(明治六年の政変)。
下野後の1874年(明治7年)、副島は板垣退助や後藤象二郎、同郷の江藤新平らとともに愛国公党を結成し、有司専制(薩長藩閥による専制政治)を批判して民撰議院設立建白書を左院に提出した。これは日本の自由民権運動の実質的な起点となる出来事であり、副島はその中心人物の一人として名を連ねた。のちに副島は宮中に入り、侍講として明治天皇に儒学を講じるなど、再び国政の表舞台や皇室の補佐役として活躍し、晩年は書家(蒼海と号す)としてもその才能をいかんなく発揮した。