県令
【概説】
廃藩置県によって新たに設置された各県を統治するため、明治政府が中央から任命・派遣した地方長官。のちの県知事に相当し、明治初期の中央集権体制確立において極めて重要な役割を担った。
廃藩置県と県令の誕生
1871年(明治4年)、明治政府は廃藩置県を断行し、江戸時代以来の大名(知藩事)による領国支配を完全に解体した。全国は政府の直轄地である「府」と「県」に一元化され、政府は旧大名たちを東京へ集住させる一方で、各地方の統治者として中央から新たな官吏を派遣した。この際、東京・大阪・京都などの「府」の長官を「知事(府知事)」と呼んだのに対し、「県」の長官に与えられた役職名が県令であった。
強力な権限と中央集権体制の推進
県令は中央政府、特に1873年(明治6年)に設立された内務省の強い統制下に置かれ、地方における行政・警察・徴税の全権を握る絶大な権力を持っていた。世襲の領主としてその土地と密着していた江戸時代の藩主とは異なり、県令は国家の官僚であったため、政府の都合による転任や罷免が頻繁に行われた。これにより地方独自の政治的自立性は削がれ、明治政府の意向が全国津々浦々へ速やかに浸透する強力な中央集権体制が構築されたのである。また、県令の多くは薩摩・長州・土佐・肥前といった西南雄藩の出身者が占めており、藩閥政府の地方における「手足」としての性格を色濃く持っていた。
近代化政策の実行と「土木県令」
県令に課せられた最大の任務は、地租改正や徴兵令、学制の導入といった富国強兵・殖産興業政策を地方社会で実行に移すことであった。しかし、これらの急激な近代化政策は民衆の伝統的な生活を破壊する側面もあったため、各地で血税一揆や地租改正反対一揆などの激しい抵抗を引き起こした。県令は警察力を駆使してこれを鎮圧し、時には強権的な手法を用いて上からの改革を推し進めた。
一方で、地方の近代化を物理的な面から推進するため、道路や橋梁などのインフラ整備に尽力した県令も存在した。その代表格が、山形県令や福島県令、栃木県令を歴任した三島通庸(みしまみちつね)である。彼は大規模な道路建設などの土木事業を強行する一方で、福島事件や加波山事件などに見られるように、高まりを見せていた自由民権運動を徹底的に弾圧した。そのため、民衆や民権派からは「土木県令」あるいは「鬼県令」と呼ばれ恐れられた。
地方制度改革と「県知事」への改称
1870年代後半から1880年代にかけて、自由民権運動の高揚と国会開設の決定を背景に、政府は地方制度の再編を迫られた。1878年(明治11年)の地方三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)の制定により府県会(地方議会)が設置されると、県令は民選の議員からなる議会との調整という新たな政治的課題に直面することとなった。専制的な行政執行だけでなく、議会運営の手腕も問われるようになったのである。
その後、1885年(明治18年)の内閣制度発足に伴う官僚機構の近代化が進む中で、1886年(明治19年)に地方官官制が大きく改正された。これにより「県令」の呼称は「府知事」に合わせる形で県知事へと改められ、約15年に及んだ県令の時代は幕を閉じた。県令という役職は、封建的な割拠状態から近代的な統一国家へと日本が脱皮する過渡期において、極めて強力な推進力となった制度であったと評価できる。