教部省 (きょうぶしょう)
【概説】
明治政府が1872(明治5)年に神祇省を廃止して設置した、国民の思想教化を司る中央官庁。神道のみによる教化の限界を認識した政府が、仏教勢力をも動員して近代国家にふさわしい臣民を育成しようとした機関である。
設置の背景:神道国教化政策の挫折と軌道修正
明治政府は発足当初、古代の祭政一致を理想掲げ、1870年に「大教宣布の詔」を発して神道を事実上の国教とする政策を強力に進めていた。しかし、それまで神仏習合の信仰に親しんでいた庶民にとって、急進的な神仏分離や仏教排除の動き(廃仏毀釈)は混乱を招くだけであり、神職のみによる国民教化は行き詰まりを見せていた。
さらに、当時はキリスト教禁制に対する欧米列強からの強い反発や、旧来の価値観の揺らぎに伴う一揆の頻発など、思想・社会的な不安が広がっていた。そこで政府は、旧来の神祇省を廃止し、仏教界の組織力や影響力を利用して国民教化を再編・強化するため、新たに「教部省」を設立したのである。
神仏合同布教の展開と「三条の教憲」
教部省は、神職に加えてこれまで排除の対象となっていた仏教僧侶をも「教導職」に任命し、両者が協力して国民を導く神仏合同(神仏共同)布教を推進した。その布教の基準として示されたのが、以下の「三条の教憲」である。
- 一、敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事(神を敬い、国を愛すること)
- 二、天理人道ヲ明ニスヘキ事(天の道理と人の道を明らかにすること)
- 三、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事(天皇を敬い、政府の命令に従うこと)
この教憲のもと、東京に設置された中央機関である大教院をはじめ、地方には中教院・小教院が組織され、官民一体となった熱心な教化活動が展開された。これは、キリスト教の浸入を防ぎつつ、天皇を中心とする近代国家の規律を国民に植え付けるための国策であった。
神仏合同の破綻と教部省の終焉
しかし、本質的に教理の異なる神道と仏教が一体となって布教することには、当初から無理があった。特に、布教活動の実務において神職が優位に立ち、神道の教義が前面に押し出されたことに対し、仏教側から強い不満が噴出した。
なかでも浄土真宗(真宗大谷派)の僧侶である島地黙雷らは、欧州視察の経験から「信教の自由」と「政教分離(神仏分離)」を強く主張し、政府の宗教介入を厳しく批判した。これにより浄土真宗は大教院から離脱し、神仏合同布教の体制はわずか数年で崩壊を迎えることとなった。
1875年に大教院が解散されると、教部省はその存在意義を失い、1877年に廃止された。その事務は内務省社寺局へと引き継がれ、国家が特定の宗教教理を直接教化する方針は放棄された。この挫折を経て、政府は神道を宗教を超越した国家の祭祀・道徳として位置づける「国家神道」の形成へと舵を切ることになる。