賞典禄

明治政府が、維新の功労者に対して家禄とは別に特別に支給した給与(恩賞)を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
賞典禄(Wikipedia)

賞典禄 (しょうてんろく)

1869年

【概説】
戊辰戦争や明治維新において、新政府軍として功績のあった諸藩や個人に対して与えられた特別な恩賞。従来の先祖代々の家禄とは別枠で支給され、世襲可能な永世禄と一代限りの終身禄が存在した。しかし、これが新政府の財政を激しく圧迫したため、のちの秩禄処分(禄制の全廃)を招く直接的な契機となった。

戊辰戦争の論功行賞と授与の実態

1868年から翌年にかけて戦われた戊辰戦争において、旧幕府勢力を打倒し明治新政府の樹立に貢献した大名、公家、および一般の藩士(士族)らに対し、1869(明治2)年に恩賞として「賞典禄」が授与された。これは維新の論功行賞として実施されたものであり、その支給対象には薩摩・長州・土佐・肥前のいわゆる「薩長土肥」をはじめとする官軍側の諸藩(藩賞)と、多大な軍功を挙げた個人(個賞)が含まれていた。

個人の授受において代表的な人物としては、西郷隆盛(永世賞典禄2000石)、木戸孝允(1000石)、大久保利通(1000石)、板垣退助(1000石)などが挙げられる。賞典禄には子孫への継承が認められる「永世賞典禄」と、本人の一代限りに留まる「終身賞典禄」の2種類があったが、その多くは永世賞典禄として与えられ、受給者にとっては破格の経済的特権となった。

新政府の財政圧迫と秩禄処分への展開

賞典禄は功臣たちの忠誠に報いるための制度であったが、発足間もない明治新政府にとっては極めて重い財政負担となった。版籍奉還や1871年の廃藩置県を経て、新政府は旧藩が抱えていた藩債だけでなく、全国の士族に対する先祖代々の「家禄」の支給義務をも引き継いでいた。ここに別枠である賞典禄が加わったことで、政府の歳出に占める「秩禄」(家禄と賞典禄の総称)の割合は、一時期は国家予算(歳出)の3〜4割に達するほどに膨れ上がった。

地租改正による安定的な税収体制が整う以前の新政府にとって、この莫大な特権的経費の垂れ流しは、近代産業の育成(殖産興業)や軍備増強といった近代化政策の推進を著しく阻害するものとなった。そのため、大蔵省を中心に禄制の整理が急務とされ、1873(明治6)年には希望者に一時金を支給して家禄を奉還させる「秩禄奉還の法」が制定された。そして1876(明治9)年、政府はついにすべての禄制を全廃する秩禄処分を断行。これにより、賞典禄を含むすべての俸禄支給が打ち切られ、代わりに一時の金禄公債証書が交付されることとなった。

士族の不満と反乱への影響

賞典禄の廃止を伴う秩禄処分は、明治維新を自らの手で成し遂げたという自負を持つ士族たちに致命的な打撃を与えた。彼らは維新の功労者でありながら、武士としての経済的基盤(賞典禄・家禄)を一挙に失い、同年に発令された廃刀令と合わせて身分的特権も完全に剥奪されることとなった。

この政府のドラスティックな方針転換は、「主家への忠誠に対する恩賞」という旧来の武士道徳を蹂躙されたと感じる士族たちの間に、激しい反発と精神的な裏切り感を生み出した。この不平士族の不満は、同年に相次いで発生した神風連の乱や秋月の乱、萩の乱、そして1877(明治10)年に維新の最大の功臣であった西郷隆盛を担いで勃発した最大かつ最後の士族反乱である西南戦争へとつながっていくこととなる。賞典禄の授与と廃止のプロセスは、封建的な特権階級であった「武士」の解体と、近代的な「国民皆兵・四民平等」の国づくりへと向かう移行期の葛藤を象徴する出来事であった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 年代順ではなく、人物の伝記(本紀や列伝)を中心に歴史を記述する、中国の正史などに用いられた形式を何というか?
Q. 明治初期、西郷らの征韓論に対して、大久保利通や木戸孝允らが唱えた「まずは国内の整備・近代化を進めるべきだ」とする主張を何というか?
Q. 弥生時代後期に普及し、乾田の開発や農作業の効率を飛躍的に高めることになった金属製の農具を何というか?