秩禄 (明治初期)
【概説】
明治新政府が、華族や士族に対して支給した家禄と、維新の功労者に与えた賞典禄を合わせた総称。江戸時代の封建的な主従関係に基づく俸禄制度を継承したものであったが、政府財政を著しく圧迫した。のちに「秩禄処分」によって公債の交付と引き換えに全面廃止され、旧特権階級である士族の没落と反乱を引き起こす契機となった。
家禄と賞典禄の構造と政府の財政負担
明治維新によって成立した新政府は、江戸時代の旧幕藩体制における知行制(領地を給与する制度)を否定し、中央集権化を進めた。その過程で、華族(旧大名や公家)や士族(旧藩士や幕臣)に対し、家格や旧禄高に応じて支給されたのが家禄である。さらに、尊王攘夷運動や戊辰戦争において新政府側に立って功績を挙げた人々(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など)に対し、その功労への報奨として終身または数代にわたって支給されたのが賞典禄であった。これら二つを総称して「秩禄」と呼ぶ。
しかし、四民平等の理念を掲げ、版籍奉還や廃藩置県によって旧来の領主支配権を回収した新政府にとって、何ら生産活動を行わない巨大な寄生階級である華族・士族に対して俸禄を支払い続けることは、極めて矛盾した措置であった。秩禄の支給総額は、当時の政府歳入の約3割から4割近くを占め、近代国家建設のためのインフラ整備や軍備拡張を急ぐ新政府にとって、最大の財政的足枷(あしかせ)となっていたのである。
秩序の解体と「秩禄処分」による士族の没落
新政府は財政破綻を回避するため、段階的に秩禄の削減・廃止(秩禄処分)を進めることとなった。まず1873(明治6)年に「秩禄奉還の法」を定め、希望者に対して将来の秩禄を前払いで一時金(現金と公債)として支給し、自主的な奉還を促した。この資金をもとに、士族が農業や商業などの自立を図る「士族授産」が推奨されたが、商慣習に不慣れな士族の多くは事業に失敗し、困窮していった。
そして1876(明治9)年、政府はついに秩禄の強制的な全面廃止に踏み切る。同年8月に「金禄公債証書発行条例」を布告し、すべての秩禄を廃止する代わりに、一回限りの代償として金禄公債(国債の一種)を交付した。これにより、華族や大身の士族はまとまった資本を得て資本家へと転身できたが、大多数の一般士族に与えられた公債の額面は極めて少額であり、その利息だけでは到底生活を維持できなかった。同年に発令された「廃刀令」と相まって、特権的地位と経済的基盤を完全に喪失した士族の不満は頂点に達し、同年の神風連の乱や秋月の乱、萩の乱、そして1877(明治10)年の西南戦争へとつながる、一連の士族反乱を引き起こす要因となった。