渋沢栄一

大蔵省官僚として国立銀行条例の制定などに尽力したのち実業界に転じ、第一国立銀行をはじめ約500の企業設立に関わり「日本資本主義の父」と呼ばれた人物は誰か?
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重要度
★★★★

渋沢栄一 (しぶさわえいいち)

1840〜1931

【概説】
幕末から昭和初期にかけて活動し、「日本資本主義の父」と称される官僚、実業家。大蔵省において国立銀行条例の制定などを主導したのち実業界に転じ、第一国立銀行をはじめとする約500もの企業の設立・育成に関与した。利益独占を嫌って公益を重んじる「合本主義」や「道徳経済合一説」を提唱し、日本の近代経済社会の基礎を築いた。

幕末の動乱とヨーロッパ体験

武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれる。当初は尊王攘夷思想に傾倒し、高崎城の乗っ取りなどを計画するが挫折。その後、一橋慶喜の家臣である平岡円四郎の推挙により一橋家に仕えることとなった。慶喜が江戸幕府第15代将軍となると幕臣に身分を変え、1867(慶応3)年には将軍の弟・徳川昭武の随員としてパリ万国博覧会に派遣された。このヨーロッパ滞在中に、近代的な銀行制度や株式会社制度(合本組織)など、西洋の先進的な資本主義経済の実態に直接触れたことが、後の彼の思想と行動を決定づけることとなる。

明治新政府での活躍と国立銀行条例

大政奉還に伴い帰国した後、静岡藩で「商法会所」を設立して事業を行っていたが、明治新政府の大隈重信に実務能力を買われて大蔵省に入省した。大蔵官僚(租税正、大蔵少輔など)として、度量衡の統一や廃藩置県に伴う財政処理、新しい紙幣制度の構築など、明治政府の初期の近代化政策に多大な貢献をした。

特に、1872(明治5)年に制定された国立銀行条例の立案を主導し、日本の近代的な金融システムの基礎を築いたことは特筆される。しかし、各省の予算配分をめぐって大久保利通らと対立し、1873(明治6)年に井上馨とともに大蔵省を辞任した。

「日本資本主義の父」としての企業創設

退官後は実業界に身を投じ、同年に日本初の本格的な近代銀行である第一国立銀行(現在のみずほ銀行などの前身)を創設し、総監役(のちに頭取)に就任した。これを拠点として、抄紙会社(王子製紙)、大阪紡績会社(東洋紡)、東京瓦斯、東京海上保険、日本鉄道など、金融、紡績、交通、インフラといった多岐にわたる約500もの企業の設立や育成に関与した。

彼の経済思想の根底には、広く一般から資本を集め、公益のために事業を展開する「合本主義(がっぽんしゅぎ)」があった。三井や三菱などの政商が同族による資本の独占(財閥化)を進めたのとは対照的に、渋沢は株式を広く公募し、事業が軌道に乗れば自らの持ち株を売却して次の新しい事業の資金に充てるという手法をとり、特定の財閥を形成することはなかった。

『論語と算盤』と社会公共事業への献身

渋沢は経済活動において、利益の追求と道徳の遵守は両立すべきであるという「道徳経済合一説」を強く主張し、その理念を著述『論語と算盤』にまとめた。私利私欲を戒め、国家や社会全体の豊かさを第一義とするこの思想は、日本の初期資本主義に高い倫理観をもたらした。

さらに、彼の活動は経済分野にとどまらず、養育院(身寄りのない子供や老人などを保護する施設)の院長を半世紀以上にわたって務めるなど、約600の社会福祉事業や公共事業に尽力した。また、商法講習所(一橋大学の前身)や日本女子大学校など教育機関の創設・支援にも関わり、近代日本の教育・文化の発展にも大きく貢献した。その多大なる功績から、今日でも「日本資本主義の父」として高く評価されており、2024(令和6)年に発行された新一万円札の肖像画にも採用されている。

渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録(抄) (角川ソフィア文庫)

晩年の回想録から日本近代化の礎を築いた渋沢栄一の生い立ちと精神構造を深く読み解く、自伝的エッセイの決定版。

ビジュアル図解 日本資本主義の父 渋沢栄一の生涯

偉大なる先駆者の軌跡を美しい写真や図解とともに追い、渋沢栄一の思想と功績を直感的に理解できる入門に最適な書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

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Q. 慶長遣欧使節が太平洋を横断する際に乗船した、伊達政宗が建造させた西洋式の大型帆船は何か。
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