小野組 (おのぐみ)
【概説】
江戸時代から明治初期にかけて活動した京都の豪商、および明治新政府と結びついて急成長を遂げた政商。三井組とともに新政府の公金(為替方)を取り扱い、第一国立銀行の設立にも深く関わったが、大蔵省の政策転換に伴う担保差し入れ要請に応じきれず、1874年に破産した。
幕末から明治維新における政商への脱皮
小野組は、江戸時代初期に近江(滋賀県)出身の商人・小野善助が京都で創業した豪商である。江戸期を通じて生糸や綿糸などの仕入販売、さらには両替商を営み、幕府や諸藩への融資(大名貸)を行うことで巨万の富を蓄積した。
幕末の動乱期、小野組は新政府(明治政府)に対して積極的な資金援助(御用金の調達など)を行った。この功績が評価され、維新後は三井組や島田組らとともに、新政府の公金(国庫金や府県の租税など)の出納・送金を司る為替方(かわせかた)に任命された。公金を無利息で預かり、それを自社の事業資金として流用できる特権を得た小野組は、国家権力と癒着して利益を上げる政商へと急成長を遂げ、鉱山開発や製糸業、生糸貿易など多角的な近代産業に進出していった。
近代金融の確立と第一国立銀行への参画
明治政府が欧米の近代的な金融制度を導入しようとするなか、小野組は日本の近代資本主義の育成において重要な役割を担うこととなった。1872年(明治5年)に国立銀行条例が制定されると、翌1873年(明治6年)には日本初の近代銀行である第一国立銀行が設立された。この銀行は、政府の指導のもとで三井組と小野組が均等に出資して設立した「三井・小野組合名銀行」を母体としたものであった。
この第一国立銀行の経営には、総監役として渋沢栄一が招聘され、小野組は三井組と並んで日本の近代金融界を牽引する存在として期待された。しかし、その経営基盤は「公金の預託」という政府の特権的保護に依存しており、本質的には極めて脆弱なものであった。
「官金取扱規則」の改定と突然の破綻
1874年(明治7年)、大蔵卿に就任した大隈重信は、放漫となっていた政商への公金預託制度を改革し、国家財政の近代化と健全化に着手した。政府は「官金取扱規則」を改定し、為替方が預かる公金(官金)に対して、それと同額の確実な担保(公債や不動産など)を差し出すことを義務づけた。さらに、担保が用意できない場合は速やかに公金を返還するよう求めたのである。
当時、預かった公金を鉱山や製糸工場などの固定資産への投資に注ぎ込んでいた小野組は、ただちに返還できる流動資金を持っておらず、また十分な担保も差し出すことができなかった。この結果、資金繰りに行き詰まった小野組は、1874年11月に破産に追い込まれた(小野組転籍事件)。
小野組の破綻により、巨額の融資を行っていた第一国立銀行も連鎖倒産の危機に瀕したが、渋沢栄一の主導による小野組資産の差し押さえや、ライバルであった三井組が不足分を肩代わりするなどの救済措置により、銀行の破綻という最悪の事態は免れた。小野組の崩壊は、前近代的な特権に頼る政商が淘汰され、より近代的な金融資本主義へと移行する日本の過渡期を象徴する事件となった。