宮古島
【概説】
沖縄本島から南西に位置する、先島諸島に属する主要な島の一つ。1871(明治4)年に発生した同島民の台湾漂着・殺害事件は、明治政府が台湾出兵へと踏み切る直接的な契機となり、その後の近代日本における国境画定や琉球処分に決定的な影響を与えた。
宮古島島民遭難事件の発生と悲劇
1871(明治4)年10月、宮古島の役人らを乗せた貢納船が、首里王府への年貢を納めて帰途につく際、激しい台風に遭遇して遭難した。漂流の末に台湾南部に漂着した乗組員66名は、現地の先住民族(パイワン族)の集落に迷い込んだ。当初は保護されたものの、言語や文化の違いから生じた誤解により、結果として54名が殺害される悲劇(宮古島島民遭難事件、または琉球漂流民殺害事件)へと発展した。生存者12名は、現地の漢人や清朝地方官の保護を受け、福建経由で無事に帰国を果たしたが、この海難事故は単なる悲劇にとどまらず、近代東アジアの国際政治を大きく揺るがす外交問題へと発展していくこととなる。
「台湾出兵」への口実と清朝との主権争い
当時、明治政府は征韓論の挫折などにより、不平士族の不満が国内に渦巻いており、対外的な軍事行動によってこの関心を外へ逸らす機会をうかがっていた。外務卿の副島種臣らは、この事件を主権主張の好機と捉えた。日本政府が清朝に対して責任を追及した際、清朝側は台湾の先住民を「化外の民(皇帝の支配が及ばない民)」であると言い逃れを図った。日本政府はこの発言を「清朝の主権が及ばない地域」と解釈し、1874(明治7)年に西郷従道率いる軍を派遣する台湾出兵を断行した。これは近代日本にとって初の海外派兵であった。
琉球処分と主権確定への歴史的意義
台湾出兵の後、イギリスの調停によって日清両国間で「北京専約」が締結された。この中で、清朝は日本の出兵を「保民(自国民の保護)の義挙」と認め、遺族への見舞金を支払うことに合意した。これは、清朝が間接的に琉球島民を「日本国民」であると認めたことを意味していた。当時、琉球は日本(薩摩藩)と清朝の両方に服属する「日清両属」の状態にあったが、この外交的勝利を背景に、明治政府は1879(明治12)年の琉球処分(沖縄県の設置)を断行し、琉球を日本領へ編入する国際的な正当性を獲得した。宮古島という一地方の島民が巻き込まれた遭難事件は、図らずも日本の近代化における国境画定と領土拡張の出発点となったのである。