勝義邦(海舟)

1860年に咸臨丸の艦長(実質的な指揮官)としてアメリカへ渡り、のちに幕府の陸軍総裁として西郷隆盛と江戸無血開城の交渉を行った人物は誰か?
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★★★

【参考リンク】
勝海舟(Wikipedia)

勝義邦(海舟) (かつよしくに(かいしゅう)

1823〜1899

【概説】
江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した幕臣、政治家。1860年に咸臨丸の事実上の艦長として太平洋を横断し、のちに海軍奉行として西郷隆盛との会談を通じて江戸無血開城を実現させた。幕府の枠組みにとらわれない近代日本の海軍創設と人材育成に尽力した開明的な人物である。

蘭学の習得と海防への目覚め

勝義邦(通称・麟太郎、号・海舟)は、貧窮した無役の旗本・勝小吉の長男として江戸に生まれた。若き日から蘭学に強い関心を抱き、兵学や蘭語の辞書『ドゥーフ・ハルマ』の筆写など、困窮のなかで猛勉強を重ねた。1853年(嘉永6年)、ペリーの浦賀来航に際して幕府老中の阿部正弘が広く意見を求めた際、勝は海防に関する意見書を提出した。これが高く評価されて幕府に登用される契機となり、長崎に新設された長崎海軍伝習所に入所し、オランダ人教官から本格的な航海術や海軍兵学を学ぶこととなった。

咸臨丸での渡米と海軍操練所の創設

1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節団が派遣されることになり、勝はその護衛艦である咸臨丸に実質的な艦長格として乗船した。日本の軍艦による初の太平洋横断を成し遂げ、アメリカの進んだ産業や民主的な社会制度を直接見聞したことは、彼の思想に決定的な影響を与えた。

帰国後、幕府の軍艦奉行並などに就任した勝は、1864年に神戸海軍操練所を設立した。ここでは幕臣に限定せず、坂本龍馬や陸奥宗光など諸藩の脱藩浪士を身分に関わらず広く受け入れ、近代日本の海軍を担う人材の育成に努めた。しかし、塾生の一部が禁門の変などの反幕府活動に関与したため、幕府の疑念を招き、操練所は閉鎖され、勝自身も一時蟄居を命じられることとなった。

江戸無血開城の決断とその歴史的意義

大政奉還後の1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜が江戸へ逃げ帰ると、新政府軍は江戸総攻撃を決定した。この国家的危機において、幕府の陸軍総裁に任じられた勝は、徹底抗戦を主張する主戦派を抑え、新政府軍の参謀・西郷隆盛との直接交渉に臨んだ。

同年3月から4月にかけて行われた会談により、総攻撃の中止と徳川家の存続、そして江戸無血開城が合意された。この決断は、100万人都市であった江戸の町を戦火から救っただけでなく、諸外国(特にイギリスやフランス)が内戦に乗じて日本に介入し、植民地化する危険を未然に防いだという点で、日本近代史における極めて重要な転換点となった。

明治維新後の活動と後世への遺産

維新後も勝は新政府に仕え、参議、海軍卿、枢密顧問官などの要職を歴任し、伯爵に叙せられた。しかし、彼が生涯を通じて心血を注いだのは、職を失い困窮する旧幕臣の救済や就労支援、そして徳川慶喜の名誉回復であった。また、足尾銅山鉱毒事件で奔走する田中正造を支援し、日清戦争に反対の態度を示すなど、国家の権力に阿らない独自の視点を持ち続けた。

晩年は赤坂の氷川邸で過ごし、その折々の談話をまとめた『氷川清話』や、幕府海軍の歴史を編纂した『海軍歴史』などは、幕末維新期の貴重な証言として今日でも広く読まれている。幕府という一つの組織に属しながらも、常に「日本」という統一国家の行く末を見据えて行動した勝海舟の先見性と度量は、現在においても高く評価されている。

勝海舟 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)

激動の幕末を渡り歩いた気骨ある政治家の実像に迫る、歴史ファン必読の重厚な伝記。

氷川清話 (講談社学術文庫 1463)

現代にも通じる鋭い洞察と辛口の人間論が詰まった、勝海舟の思想に触れる至高の語録。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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