留守政府 (るすせいふ)
【概説】
岩倉使節団の欧米派遣に伴い、首班の岩倉具視や木戸孝允、大久保利通らが不在の間、日本国内の国政を預かった明治政府の指導体制。西郷隆盛や板垣退助、大隈重信、江藤新平らが主導し、不都合な大改革を行わないという事前約束(約定)に反して、日本の近代化の骨格となる数々の重要改革を断行した。
留守政府の発足と「現状維持」の約定
1871(明治4)年11月、明治政府は不平等条約の改正打診と欧米の先進的な制度・文明の視察を目的として、政府首脳の約半数が参加する岩倉使節団を派遣した。この約2年にわたる長期不在期間中、国内の政治的混乱を防ぎ、政務を遅滞なく執行するために組織された暫定政権が「留守政府」である。その首班には薩摩藩出身の参議である西郷隆盛が据えられ、土佐藩の板垣退助、肥前藩の大隈重信や江藤新平らが実務を担った。
使節団の出発に際し、留守政府と使節団の間では「条約改正や官制改革などの重大な決定は、使節団の帰国まで行わない」という約定(十二条の確約)が交わされていた。これは、国家の針路を左右する大改革を不在の間に進めないための安全弁であった。しかし、激動する内外の情勢は、留守政府に現状維持を許さなかった。
近代化を加速させた四大改革の断行
留守政府は、約束に反して日本の近代国家としての骨格を形成する四大改革をはじめとする諸改革を次々と断行した。これは主に大隈重信や江藤新平、大蔵大輔の井上馨といった若手実務官僚の強力な推進力によるものであった。
具体的には、1872(明治5)年の学制の発布による近代教育制度の導入、1873(明治6)年1月の徴兵令施行による国民皆兵制の樹立、同年7月の地租改正法による税制の近代化などである。また、太陰暦から太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦、キリスト教信仰を黙認する高札の撤去(キリスト教禁制の事実上の廃止)など、社会のあり方を根底から変える政策もこの時期に集中している。これらは明治政府の基盤を確固たるものにする一方で、農民一揆や士族の不満を増大させる要因ともなった。
征韓論争と明治六年政変による終焉
留守政府の命運を分けたのが、朝鮮(李氏朝鮮)との国交樹立をめぐる対外政策、いわゆる征韓論であった。鎖国を続ける朝鮮が明治政府の国交要求を拒絶したことに対し、板垣退助や江藤新平らは武力行使をも辞さない強硬姿勢を示した。これに対し、首班である西郷隆盛は自ら全権大使として朝鮮に渡り、直接交渉を行うことを主張した。留守政府内では西郷の使節派遣が決定され、あとは天皇の裁可を待つばかりとなった。
しかし、1873年後半に帰国した岩倉具視や大久保利通らは、欧米の国力と比して日本の内治(国内改革)が急務であるとし、使節派遣に猛烈に反対した。この「内治優先派」と「征韓派」の対立は、同年10月の明治六年政変へと発展する。結果として西郷の派遣は中止となり、敗れた西郷、板垣、江藤、副島種臣、後藤象二郎らの参議が揃って下野し、留守政府体制は崩壊した。この政変はのちの士族反乱(佐賀の乱や西南戦争)や、自由民権運動の発生へと繋がる日本近代史の大きな転換点となった。