江華島事件 (こうかとうじけん)
【概説】
1875年(明治8年)、朝鮮の首都防衛の要衝である江華島付近において、日本の軍艦「雲揚」が挑発行動を行い、朝鮮側の砲撃を誘発して生じた武力衝突事件。この事件を契機として日本は朝鮮に強硬に開国を迫り、翌年の日朝修好条規締結へと至った。
明治初期の日朝関係と「砲艦外交」の企図
明治維新によって成立した新政府は、1868年(明治元年)に王政復古を告げる書契(国書)を朝鮮に送った。しかし、当時の朝鮮は興宣大院君(こうんだいいんくん)による厳格な鎖国政策を敷いており、日本の国書が従来の江戸幕府との外交形式(通信使による交隣関係)と異なり、「皇」や「勅」といった中国の皇帝のみが使用できる文字が含まれていたことを理由に、その受け取りを拒否した。これを機に日本国内では、武力を用いてでも朝鮮を開国させるべきだという征韓論が沸騰した。
1873年(明治6年)の明治六年政変で西郷隆盛ら征韓派が下野したことで、直ちに武力行使が行われることは回避されたが、政府内にも朝鮮を力で開国させようとする意図は根強く残っていた。1874年の台湾出兵を成功させた日本政府は、かつて自身が欧米列強から受けた軍事力を背景とする外交交渉、いわゆる砲艦外交を朝鮮に対して実行に移すことを企図したのである。
雲揚号の挑発と武力衝突の経緯
1875年(明治8年)5月以降、日本は海路の測量などを名目に軍艦を朝鮮沿岸に派遣し、示威行動を展開した。同年9月、井上良馨(いのうえよしか)艦長が率いる日本の軍艦雲揚(うんよう)は、飲料水の確保を口実にして、朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)への水路の入り口にあたる軍事的要衝、江華島(こうかとう)の近海へと侵入した。
これに対し、江華島の沿岸砲台を守備する朝鮮軍は、接近してくる雲揚に対して警告の砲撃を行った。しかし日本側はこれを「不法な攻撃」と見なし、猛烈な報復攻撃を開始した。近代的な大砲を装備していた雲揚は朝鮮側の砲台を沈黙させたのち、陸戦隊を上陸させて永宗島の砲台を占領した。この戦闘により、大砲や武器類が略奪され、朝鮮側の守備兵に多数の死傷者が出る結果となった。
日朝修好条規の締結と不平等条約の押し付け
日本政府は、この事件の責任を「日本の平和的な測量艦に対する朝鮮側の不法攻撃」として一方的に朝鮮側に転嫁した。翌1876年(明治9年)、黒田清隆や井上馨らを全権大使として軍艦とともに派遣し、軍事的な威圧を背景に強硬に謝罪と開国を要求した。当時、朝鮮国内では大院君が実権を失い、閔氏(びんし)政権へと移行していたこともあり、朝鮮側は日本の圧力に屈することとなった。
こうして1876年2月に締結されたのが日朝修好条規(江華条約)である。この条約は、日本の領事裁判権(治外法権)の承認、朝鮮の関税自主権の欠如、釜山・元山・仁川の三港開港などを定めたものであり、日本にとって極めて有利な典型的な不平等条約であった。
東アジア国際秩序の歴史的転換点
江華島事件とそれに続く日朝修好条規の締結は、東アジアの歴史において極めて重要な意義を持つ。日朝修好条規の第一条には「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ有ス」と記された。一見すると朝鮮の独立を尊重しているように読めるが、その真の狙いは、長らく続いていた清朝を頂点とする冊封体制(華夷秩序)から朝鮮を切り離し、清の宗主権を否定することにあった。
江華島事件は、日本が西洋列強の手法を模倣してアジア近隣諸国を侵略的・威圧的に開国させた最初の事例である。ここから始まる日本と清国をめぐる朝鮮半島の主導権争いは、やがて日清戦争(1894年)を引き起こし、最終的な韓国併合(1910年)へと至る日本の大陸進出の起点となったのである。