竹崎季長 (たけざきすえなが)
【概説】
鎌倉時代中期の肥後国(熊本県)の御家人。二度にわたる元寇(文永の役・弘安の役)に出陣して武功を立て、自身の戦功や鎌倉幕府への直訴の顛末を描かせた絵巻物『蒙古襲来絵詞』の主人公ならびに制作発願者である。一介の地方武士の行動を通じて、当時の武士の価値観や恩賞の実態を今日に伝える極めて重要な人物である。
無足の御家人からの出発と文永の役
竹崎季長は肥後国益城郡竹崎郷の出身とされる。当時の彼は親族との所領争いに敗れ、知行を持たない「無足の御家人」という極めて困窮した立場にあった。1274年(文永11年)の文永の役において元(モンゴル帝国)の軍勢が九州北部に上陸すると、季長は自らの境遇を打開すべく、一族わずか数名とともに自前で武具を調達し出陣した。
彼は大宰府で総司令官の少弐経資の軍に属し、鳥飼潟(現在の福岡市)の戦いにおいて元軍に対して先駆け(真っ先に敵陣に突入すること)の功を立てる。激しい矢雨の中で乗馬は射抜かれ、自身も負傷する奮戦であったが、武功の第一の証明となる「敵の首」を直接挙げるには至らなかった。
恩賞を求めての直訴と安達泰盛
文永の役後、幕府からの恩賞の沙汰は一向に季長のもとへ届かなかった。所領を持たない季長にとって、自らの命を懸けた軍役への見返りがないことは、武士としての存活に関わる死活問題であった。1275年(建治元年)、季長は乗馬や鞍などを売却して旅費を捻出し、単身で鎌倉へ下る決意をする。
鎌倉に到着した彼は、幕府の恩賞奉行であった有力御家人の安達泰盛に対して、己の戦功を直接訴え出た。当時の幕府において一介の無足の御家人が幕府重臣に直訴することは異例中の異例であったが、季長の必死の訴えと武士としての矜持に心を打たれた泰盛はこれを認め、季長は肥後国海東郷(現在の熊本県宇城市周辺)の地頭職を与えられた。この出来事は、鎌倉時代の武士における「御恩と奉公」の双務的契約関係がいかに切実なものであったかを雄弁に物語っている。
弘安の役における奮戦
所領を得て名実ともに御家人として復活した季長は、1281年(弘安4年)の弘安の役において、海東郷の地頭として一軍を率い堂々と出陣する。この戦いでは志賀島周辺の海戦や、伊万里湾に浮かぶ御厨子島(現在の鷹島)での掃討戦に参加した。
文永の役での陸戦とは異なり、小舟に乗って元軍の大型軍船に強襲をかけるという過酷な水上戦であったが、季長は防塁(石築地)の背後から出撃して敵船に直接斬り込み、敵兵の首を挙げるなどの目覚ましい活躍を見せた。これにより、彼は十分な恩賞に与る条件を見事に満たしたのである。
『蒙古襲来絵詞』の制作と歴史的意義
晩年の1293年(永仁元年)頃、季長は自らの戦功を子孫や後世に伝えるとともに、直訴を認めてくれた今は亡き安達泰盛(霜月騒動で滅亡)への報恩、そして加護を与えてくれた甲佐大明神への感謝を表すため、全2巻からなる『蒙古襲来絵詞』を描かせた。
この絵巻物には、元軍の集団戦法や「てつはう(炸裂弾の一種)」を用いた戦法、それに対して個人の武功を重んじる日本の武士が一騎討ちの感覚で挑み苦戦する様子、さらには当時の武具や軍船の構造、幕府の法廷の様子などが極めて写実的に描かれている。竹崎季長という一人の地方御家人の執念によって生み出されたこの絵巻は、日本中世史および軍事史において、元寇の実態を視覚的に復元できる第一級の史料として、計り知れない歴史的価値を持っている。