不平士族
【概説】
秩禄処分や廃刀令などの近代化政策によって特権を奪われ、生活に困窮して明治新政府に強い不満や反発を抱いた旧武士層。彼らの不満は1870年代に一連の武力反乱を引き起こしたが、西南戦争での敗北後は自由民権運動などの言論活動へと合流していった。
明治新政府の近代化政策と士族の没落
江戸時代において支配階級であった武士は、明治維新後の版籍奉還と廃藩置県を経て士族と呼ばれるようになった。当初、新政府は彼らに対して旧来の封建的給与である家禄を支給し続けていたが、これが国家財政の大きな負担となっていた。そこで政府は、1873年(明治6年)の徴兵令によって国民皆兵を定め、士族が独占していた軍事的特権を奪った。さらに1876年(明治9年)には廃刀令を布告し、士族の精神的支柱であった帯刀の特権を剥奪した。
追い打ちをかけるように同年、政府は秩禄処分(金禄公債証書発行条令)を断行し、家禄の支給を全面的に廃止した。政府は代償として公債証書を交付したが、その利子だけでは到底生活できず、多くの士族が「武士の商法」と呼ばれる慣れない商売に手を出して失敗し、没落していった。このように、経済的・社会的・精神的な特権をすべて失った士族たちは、新政府に対する強い怒りと不満を募らせていき、彼らは不平士族と呼ばれるようになった。
征韓論争と明治六年政変
特権を奪われつつあった士族たちの不満の矛先を海外へ向け、彼らに新たな活躍の場を与えようとする思惑も絡んで浮上したのが征韓論である。西郷隆盛や板垣退助らは、鎖国政策をとる朝鮮を武力で開国させようと主張したが、1873年(明治6年)の明治六年政変において、内治優先を掲げる大久保利通や木戸孝允らに敗れて一斉に下野した。
西郷や板垣ら維新の元勲が政府を去ったことは、全国の不平士族に大きな衝撃を与えた。彼らを慕う多くの軍人や官僚も職を辞して帰郷し、各地で私学校や政治結社を設立した。これが結果として不平士族を組織化させ、政府に対する不満の受け皿と反政府運動の温床を形成することとなった。
相次ぐ士族反乱と西南戦争
鬱積した不平士族の怒りは、やがて武力による政府への反乱(士族反乱)として爆発する。1874年(明治7年)に江藤新平を指導者として起きた佐賀の乱を皮切りに、1876年(明治9年)には廃刀令への反発から熊本で神風連の乱が勃発した。これに呼応するように福岡の秋月の乱、山口の萩の乱(前原一誠らが指導)と、西日本各地で反乱が相次いだが、いずれも政府の近代的な徴兵軍隊によって短期間で鎮圧された。
そして1877年(明治10年)、不平士族の最大の拠り所であった西郷隆盛を擁し、鹿児島で西南戦争が勃発する。これは不平士族による最大にして最後の内戦となったが、平民を中心とする政府軍の圧倒的な物量と近代兵器の前に敗北し、西郷の自刃によって終結した。
武力闘争から言論による戦いへ
西南戦争における敗北は、不平士族たちに「武力によって政府を打倒することは不可能である」という現実を決定的に突きつけた。この事件を転機として、不平士族による武力反乱は完全に終息した。
しかし、彼らの反政府的なエネルギーが消滅したわけではなかった。武力闘争に見切りをつけた不平士族たちは、板垣退助らが主導していた自由民権運動へと合流していく。武力から言論へと戦いの手段を変え、国会開設や憲法制定を求める政治運動の担い手となった不平士族たちは、やがて豪農や都市の平民をも巻き込んだ全国的な民主化運動へと、日本の歴史を大きく動かしていくこととなる。