私学校
【概説】
明治六年の政変で下野した西郷隆盛らが、鹿児島に設立した士族青年のための教育・軍事機関。近代化政策に不満を抱く薩摩士族を結集させ、のちの西南戦争における反政府軍の拠点となった組織である。
設立の背景と軍事的な教育内容
1873年(明治6年)、いわゆる明治六年の政変(征韓論争)に敗れた参議の西郷隆盛が下野して鹿児島に帰郷すると、彼を慕う陸軍少将の桐野利秋や篠原国幹、さらに多くの軍人や警察官も一斉に職を辞して鹿児島へと戻った。西郷らは、これらの血気盛んな士族青年たちを統制し、同時に優秀な人材を育成・教育する目的で、1874年(明治7年)に旧鹿児島城(鶴丸城)跡地などに「私学校」を設立した。
私学校は、精神修養や儒学の古典を学ぶ「賞典学校」のほか、実践的な軍事技術を施す「銃隊学校」や「砲隊学校」から構成されていた。県内各地には多くの分校が置かれ、その教育内容は極めて軍事色彩が濃く、実質的には強固な私兵集団の養成所としての役割を果たしていた。
鹿児島県の「半独立国家」化と政府の警戒
私学校は単なる私立学校にとどまらず、鹿児島県令(知事)の大山綱良の全面的な協力を得て運営された。県の財政や税収が私学校の運営費に充てられ、さらに県内の官吏や警察官の役職の大部分を私学校の関係者が占めるようになった。これにより鹿児島県は、明治政府の命令や地租改正・徴兵令などの法令がほとんど浸透しない、事実上の「半独立国家」のような状態となった。
大久保利通を中心とする明治政府は、秩禄処分などによって特権を奪われ不満を募らせる全国の士族たちが、西郷や私学校を擁して蜂起することを極めて危険視した。政府は、鹿児島県内の動向を探るために警察官の中原尚雄らを密偵として送り込むなど、警戒と圧力を強めていった。
弾薬庫襲撃から西南戦争への突入
1877年(明治10年)1月、明治政府が鹿児島にある陸軍省砲兵工廠の武器や弾薬を、大阪へと秘密裏に搬出しようとした。これを政府による挑発、あるいは私学校への先制攻撃と捉えた私学校の急進派生徒らは反発し、政府の弾薬庫を襲撃して武器を強奪した。さらに、捕らえた密偵の中原尚雄らの口から「西郷を暗殺する計画があった」との自白を引き出したことで、私学校幹部らの怒りは頂点に達した。
沈黙を保っていた西郷隆盛も、愛弟子の暴発を受けてついに起つことを決意。私学校の組織をそのまま軍隊へと改編した薩摩軍(西郷軍)は、「新政大総督」を自称して挙兵した。これが日本最後の最大規模の士族反乱である西南戦争である。私学校の生徒たちは西郷軍の中核として政府の徴兵軍と激戦を繰り広げたが、近代兵器と物量に勝る政府軍に敗北し、西郷の自刃とともに私学校も消滅した。